秘密の痕跡(ウコハク)


【一】

 小鳥のさえずりが、どこか遠くから聞こえてくる。
 瞼に光を感じたハクは、ぼんやりと覚醒した。
「んー」
 一度目を開けたものの、再び目を閉じる。鉛のように頭が重い。そして、心なしか頭痛もしていた。
 ――呑み過ごしたか。
 典型的な二日酔いの症状だ。許されるものなら、このまま頭痛が治まるまで眠っていたい。そんな気分だった。
(そんなに呑んだ覚えはないんだがなぁ)
 昨夜はウコンと久々に呑みに出ていた。そこまでは覚えているのだが、いつ、どうやって白楼閣に戻ってきたのか全く思い出せない。ハクは、両腕を頭の上に伸ばし、ふと違和感に気付いた。
「あれ?」
 何か寒い。
 そこでようやくはっきりと目を開けた。そして、目の前に突き出した腕を見る。
「服はどこいった」
 寒いはずだ。何故か布団の中のハクは服を着ていなかった。いや、正確に言うなら、着ていたのだが殆どが肌蹴てしまっている状態だった。
(しかも、ここ何処だよ)
 ハクは仰向けのまま、目の前の景色を見つめた。
 見覚えの無い天井だった。もしやとは思うが、酔いつぶれてどっかの宿に捨て置かれたのだろうか。ウコンが一緒に居てそれはないと思いたかったが、ウコンと別れた後に道端で眠ってしまったならば、そうなる可能性は高かった。
「あーあ。あいつが、俺の奢りだって言うから~」
 顔に手を当ててため息をつく。人の金だと思うと、気兼ねなく呑めるハクである。お陰で前後不覚になるまで呑んでしまうとは、我ながら情けない。
「こうなっちまったものは仕方ない。考えるのは後だ、あと……」
 今は眠くて仕方ない。再び寝なおそうと思ったハクは、布団に包まりなおそうとした。しかし、布団が何かに引っかかっているのか、半分くらいしか己の体を包むことができない。まるで、誰かがそこにいるような……。
 ハクはギクリと顔を布団が引っかかっている方へと向けた。そこには、人の形をした山が一つ、背中を向けているではないか。その後姿を確認したハクは、
「……は?」
 思わずマヌケな声をあげてしまった。
 それは、紛れもなく昨夜一緒に呑んでいたウコンその人だったからだ。
(う、ウコン?! なんでこんな所に……っ)
 すっかり目が覚めたハクは、布団から飛び出すと、部屋の角まで後ずさった。心臓が、かつてないくらいに忙しく鼓動を打ち鳴らしている。
 布団二枚敷けば一杯になりそうな狭い部屋で敷かれた一組の布団の中に、男二人が眠っていたのだ。驚くなという方がおかしい。しかも、ハクは浴衣をだらしなく腰に引っ掛けているだけなのである。
「ん……」
(!?)
 ゴソリと、その山が動いた。思わず両手で口を塞ぐ。まるで息をすると襲われるかのように。ウコンはまだ眠っているのか、腕を上げて頭を掻いたかと思うと、再び寝息が聞こえてきた。布団からはみ出たウコンの上半身は、ハクと同じように裸であった。
(な、何だこの状況は……)
 ハクは眉間を指で押さえた。この頭痛はきっと二日酔いだけのせいではないハズだ。
 ここで、もしネコネと出くわしたならば、一生朝日を拝めない体になっていたに違いない。
 ハクは恐る恐るウコンの横顔を覗き込んだ。瞼は閉じられ、僅かに開いた唇から規則正しい呼吸音が聞こえる。間近で見るウコンの横顔に、思わず魅入る。これほど近くで彼の顔を見たのは初めてだった。いつその目が開くかと思うと、違う意味でドキドキするが。
(いい男には違いない。けど……)
 所詮は男と男なのだ。これ以上どうにかなってしまったら、今まで築き上げてきた友情が壊れかねない。
 視界の隅に己の衣服を見つけたハクは、ウコンを起こさぬように部屋の隅で着替えを済ませると、再び視線をウコンの背中へと向けた。
「お前とは、何も無かった。……そうだよな?」
 まるで、己に言い聞かせるようにそう呟いたハクは、逃げるように小さな部屋から立ち去った。
 まだ外は白み始めたばかりだった。ハクは玄関の隙間から外に人がいないのを確認すると、朝霧に紛れるようにその場を早足で去っていった。

 ***

 ハクは気付いていた。己が女性の裸には何一つ興味が持てないという事に。
 それは、クオンたちの裸を見た時だった。世の男達にすれば、おいしい以外の何物でもないその場面で、ハクは何も感じる事ができなかった。
 ――自分は、不能なのか。
 とすら思ったほどである。どうやら、記憶を喪ったと同時に、人としての生殖本能も喪ったらしいと。
 しかし、どうやらそうではなかった。
 きっかけは、デコポンポの闇賭博船でウコンに助けられた事だった。
 息苦しさに意識を失いそうになったハクの体を引き上げてくれたウコン。
 己には無い、均整の取れた体格を見上げて、ハクはクオンの裸を見た時には感じられなかった下半身の疼きを感じた。
(自分は、もしかして、男が好きなのだろうか)
 その日以来、なるべく大浴場には人の少ない時間を選んで入るようにしていたし、あの日のような疼きを感じる事もなかった。その考えも思い過ごしだったのかと思っていたのだが……。
(違ったんだ)
 再び、疑問が確信に変わったのは、ノスリとアンジュ皇女が企てた狂言誘拐の時だった。
 何故かオシュトルと刃を交える事となったハクは、真っ直ぐに己を見つめるオシュトルの視線に、死ぬかもしれないという恐怖と同時に、別の感情を感じていた。
 ――オシュトルの目には今、自分しか映っていないのだ。
 オシュトルに見つめられているという悦び。他でもない、彼に。
(こんな感情。おかしいに決まっている)
 ハクは、己の感情を否定してここまで来た。もし、オシュトルに知られてしまったらという恐れを抱きながら。
 ただの友人関係だけでいいのだ。それ以上は望まない。
 だから、ハクはいつものようにウコンとはバカをやっている。それが、二人にとって最善の距離感なのだから……。

 ***

 白楼閣は、朝食の支度をする女子衆たちの姿が廊下にあるばかりで、他の宿泊客の姿は見えなかった。
(なんとか気付かれずに戻って来れたか)
 玄関を覗き込んだハクは、ほっと胸を撫で下ろした。
 ハクとウコンが泊まっていた場所は、飲み屋街にある安宿だったようだ。帰りがてら道を確認したところ、行きつけの飲み屋とはそれほど離れていなかった。おそらく、酔いつぶれてそのままなだれ込んだのだろう。
 白楼閣の玄関をくぐり、音を立てないようにそっと廊下を横切る。このまま自室に戻って布団に潜り込めれば、クオンたちに朝帰りがバレることはない。
 そう考えていた矢先、ハクの部屋の手前にあった障子がガラリと開いた。中から、クオンがあくびをしながら出て来た。
(ゲッ!)
 思わず口から出そうになった言葉を飲み込む。今一番顔を合わせたくない人物だった。きっと、無断で外泊したことを怒られるに違いない。
 クオンからのキツイ尻尾絞めを覚悟したハクは、きつく目を閉じた。
「あら、おかえりハク。飲みすぎはダメっていつも言ってるかな」
「すみません、もうしませんっ……へ?」
 予想外のクオンの言葉に、閉じていた目を開けた。いつもなら有無を言わさず襲ってくる尻尾が、今は大人しい。
「クオン、さん?」
「オシュトルから使いが来て、ハクが酔いつぶれたから朝までこちらで介抱しているって言伝があったかな」
「おしゅ、とるが?」
 クオンの言葉に、一瞬で気が抜けた。「そうか、あいつ……」
 オシュトルからの伝言があったとなれば、クオンが疑う理由はない。いつ見つかるともわからない緊張感が徒労に終わったのはいただけないが、それよりも恐ろしい仕置きがなくなったのはありがたかった。
「それとも、オシュトルに嘘の言伝を頼んで、実は別の場所にいたのかな?」
 ギクリ。
 正確に言うならば、泊まっていたのはオシュトル邸ではなく、知らない宿だったのだが。そこまで訂正するのは、別の誤解を招く元になる。
「いやいや、何もないって。うん。風呂でも入ってくるかねぇ」
 ハクはそう言うと、クオンの視線を感じつつ、自室へと向かう。
 障子戸をパタリと閉めて、肺の底から大きなため息をついた。
 あまりにもわざとらしい振る舞いだった気がしたが、今更取り繕っても仕方ない。ハクは外套を脱ぎ捨てるとその場に座り込んだ。
 ハクは改めて、昨日の夜の出来事を思い出そうとした。




 【二】

 昨日、いつもの仕事を終える帰り道、屋台の前でウコンに偶然出くわしたのだった。
「よぉ、アンちゃん。今帰りかい?」
「ああ。お前がこんなトコにいるなんて、珍しいな」
 ハクが隠密の仕事を請け負うようになってからは、町の見回りは殆どこちらに任せていると聞いていたので、夕刻とはいえ彼の姿を見かけるのは珍しかった。
「何、ちょっとした息抜きさ」
 串だけになった串焼きの残骸を見せて、ウコンは笑う。「ずっと屋敷に閉じ込められてちゃ、鬱憤も溜まるってもんさね」
「お前でも、そんな事あるんだな」
 ウコンの本来の姿であるオシュトルの仕事について言っているのだろう。オシュトルが民衆から人気があるのは、やはりその清廉さや、民への心配りからだろうか。そんな彼のもう一つの姿が今隣に居るウコンだと知ったら、彼らは一体どう思うのだろうか。
「いっそ、アンちゃんに全部押し付けたいくらいさ」
「丁重にお断りさせていただく」
 ただでさえ面倒な事は嫌いなのだ。これ以上雑用が増えては死んでしまう。
「そいつは残念だな」
 ウコンは食べ終えた串を屑入れに捨てると、立ち去ろうとしたハクの横に並んで顔を寄せた。
「じゃあ、一つ頼みごとがあるんだが」
「なんだよ。体力仕事は御免だぞ」
 また、面倒な事を押し付けられるのではないかと身構えたハクに、ウコンがニカリと笑う。
「そんな事頼まねェさ。ただ、この後呑みに行くのに付き合ってもらおうと思ってな」
「呑みに?」
 酒が呑める。その言葉につい反応してしまう。そんなハクの反応を面白がるかのように、ウコンは続けた。
「もちろん、俺の奢りでな」
 その誘いを断る理由を、ハクは持っていなかった。


 そして、今朝に至る。
(飲み屋で酒を頼んで、近況を話して……それで?)
 その後の記憶が全く無い。
「あぁ……自分のバカ」
 そう言わざるを得ない。何処をどうやったら、あんな狭い座敷に二人きりになるのだろう。
 がっくりと項垂れたハクは、ひとまず風呂に入って気持ちを切り替えようと、その重い腰を持ち上げた。
 風呂を出ると、風呂の前の壁に背を預けてキウルが立っていた。
「何だ、待ってたのか」
「だってハクさん、今日どこに行くか知らないでしょう?」
 この帝都の溝は広大である。西に行く日もあれば、東に行く日もある。その日、どこに行くのかはオシュトルからの依頼書に書いてある。その依頼書を持っているのがキウルなのだ。
「で、今日は何処の溝攫いなんだ?」
「東にある農家の用水路ですよ」
 結局、溝攫いをするのには変わりは無いわけだ。
 溝攫いの用具を手に、二人並んで目的地へと向かう。
「そういえば、昨日ハクさん帰ってきませんでしたね」
 ドキッ。
 いきなり触れられたくない事に触れられて、ハクは心臓が痛くなった。
「兄上と呑んでいたのですか?」
「いや、ウコンと……だけど」
 訂正するのはそこなのか、と心の中でツッコミを入れつつ、ハクはキウルに答えた。「何でそんな事聞くんだ?」
「いえ、お屋敷から手紙を受け取ったの、私なんです」
「お前が?」
 ええ、とキウルが頷いた。
「兄上が、そうやって特定の誰かと酒を呑むって珍しい気がして」
「何で?」
 気心の知れた仲なら、普通の事だろう。ハクだって、マロロ達と酒を呑んだりしている。
「もちろん。仲間内でまとまって飲みに行くというのはよくある事だと思うのですが、二人きりでとなると話は別です」
「え……?」
 ハクは、思わず立ち止まった。キウルは続ける。
「特定の人と呑むということは、その方を特別扱いしているって事じゃないですか。そうすると、兄上を良く思っていない連中が、その方を狙う可能性だってあるわけですから」
「屋敷で呑むならまだしも、人目の多い外で呑むなんて、兄上にしては珍しいと思います」
「そうは言っても、ウコンだからなぁ」
 オシュトルとして呑んでいたわけではない。ウコン=オシュトルだと認識している者は、そう多くは無いはずだ。
「要するに、羨ましいってことですよ」
「へ?」
「だって、兄上に認められてるって事でしょう? それって」
 ハクさんが、特別だって事。
 キウルの言葉に、ハクは口を開いたまま二の句が継げなかった。
 だが、だからといって、今朝の状況はあまりにも唐突すぎる。特別とは文字通り親友として認められているということだろう。
「どうしたんですかハクさん、顔赤いですよ?」
「お前が恥ずかしい事サラっと言うからだろッ。さっさと仕事に行くぞ、キウル」
 首を傾げるキウルを置いて、ハクは目的地へと足を早めた。


 日差しを遮る屋根も無い田畑の側溝を、キウルと二人でせっせと掃除した。その甲斐あってか、いつもより早い時間で仕事を切り上げる事ができた。
 側溝の掃除の礼を言い、見送ってくれている老人に手を振り、キウルと並んで帰路を歩く。
「そういえば」
「ん?」
「今朝、兄上の屋敷を尋ねた時、兄上の姿が見えなかったんです」
「へぇ。早朝の散歩にでも出てたんじゃないか?」
 ハクは、キウルの方を向かずにそう言った。
「でも、ハクさんは屋敷で一晩寝て帰ってきたんですよね? じゃあ、兄上が何処へ行っていたかご存知なんじゃないで…」
「知らん」
 キウルが言い終わる前に、ハクはきっぱりと言い切った。
「ハクさ」
「知らないものは知らん」
「まだ何も言って無いですよ~」
 早足で歩き出したハクの後ろから声が追いかけてくる。ここは逃げるが勝ちだ。ハクはいつもの倍の速さで白楼閣へと歩いた。
 目と鼻の先に白楼閣の姿が見えた時、その塀の傍に見知った姿が目に飛び込んできて、ハクは思わず足を止めた。後ろからハクと同じく急ぎ足でついて来ていたキウルが、突然の急停止にハクの背中にぶつかった。
「ハクさん急に止まらないでくださいよ~」
 鼻を押さえてハクを見上げたキウルも、ハクの視線の先にいる人物に気づいたようだった。
「あに……ウコン殿っ」
「よっ、キウルにハク。仕事ご苦労さん」
 ウコンは、片手を上げながらこちらへと歩み寄って来た。ハクは、その場に縫い付けられたかのように動けない。
 今朝ぶりの再会だった。いや、あの時ウコンは眠っていたから、昨夜ぶりというのが正しいだろうか。
「アンちゃん、二日酔い大丈夫だったか?」
「……あぁ」
 ハクは、ため息交じりの声を絞り出すのが精一杯だった。今、己は一体どんな顔をしているのだろうか。ウコンが今朝の事について何か言ってくるのではないかと気が気ではなかった。
 しかし、ハクの危惧をよそに、ウコンは飄々とした表情を崩さない。
「ウコン殿、今日はどうしたんですか?」
「んー? いやぁ、俺も今日は二日酔いでサ。仕事にならねぇからこうやってブラブラしてるわけよ」
「あに……うえ」
 キウルが、ウコンに変装しているとはいえ、尊敬する義兄の呑気な姿に、どこか遠い目をしている。しかし、はっと我に返ると、ウコンに向かって、先刻までハクに投げかけていた疑問をぶつけた。
「今朝、屋敷に姿が見えなかったんですが、何処かへお出かけでしたか?」
「今朝?」
 ウコンは顎に指を当てて考え込んでいる。その姿を、ハクは固唾を呑んで見守っていた。今朝、何故二人であんな場所にいたのか、その理由をウコンは知っているのだろうか。
「あぁ、なんか酔いつぶれてたみたいで、飲み屋近くの宿で寝てた」
「え?」
 その言葉に、戸惑うようにキウルがハクを見た。
「ハクさん、屋敷で寝てたんじゃないんですか?」
「じ、自分は……」
 キウルの鋭い質問に、ハクは口ごもった。すると、横からウコンが口を挟む。
「ハクも一緒の宿だったのか? 実はあんまり詳しくは覚えてないんだよなぁ」
「あぁ……自分も、よく覚えてなくて」
 ハクは、気が抜けたようにウコンに同調した。彼もハクと同じように昨夜の記憶がないということか。それならば、何も問題ない。ただ、酔いつぶれて泥のように眠っていただけなのだろう。
 ウコンは、そんなハクにチラリと視線を向けると、すぐにキウルへと向き直った。「そうだ。これを妹に渡しておいてくれないか」
 そう言って、一通の手紙をキウルへと手渡す。
「ネコネさんに、ですか?」
 途端に、キウルの疲れた顔に輝きが戻った。
「ああ。頼んだぜ」
 じゃあな、と二人へ手を上げたウコンは、振り返ることも無く町の雑踏へと消えていった。
 結局、ウコンは何をしに此処へ来ていたのだろうか。まさか、ネコネへの手紙をキウルに渡すだけとは思えなかった。それだけなら、ウコン自ら渡したほうが早い。
「ハクさん、どうしたんですか?」
 白楼閣の前に立ち止まったまま動かないハクに、キウルが声を掛ける。
「ああ、今行く」
 ようやく白楼閣へと足を向けたハクは、もう一度ウコンが消えていった雑踏へと視線を向けた。もう見えなくなった彼の姿を、再び見つけ出す事は出来なかった。

 ***

 自室に戻り、日中の疲れを癒していたハクは、部屋の障子が開けられている事に気づかなかった。
「疲れた~疲れた~、あぁ、働きたくない~」
 ゴロゴロと転がりながら、そんな鼻歌を口ずさんでいた時だった。
「何なのですかその歌は」
「仕事したくない歌だ。ていうか、いつからそこにいたんだ、ネコネ」
 寝転がったまま戸口に目を向けると、ネコネがそこに立っていた。彼女は呆れたような視線をハクへと向けている。
「その歌が聞こえてきた時からです」
「ナンだよ、声掛けろよ~ネコネさんのエッチ」
 そう言って手を胸の前で交差させると、手に持っていた杖で突かれた。
「痛っ、痛いですっネコネさん」
「くだらない事言ってるからなのです」
「で、何か用か?」
 冗談はさておき、ハクは体を起こすとネコネを見上げた。ネコネはため息をつくと、ハクから視線をずらしつつ口を開いた。
「明日……」
「明日?」
「左近衛大将ミカヅチさまのお屋敷に行く事になったのです」
「お、良かったじゃないか。行ってこいよ。イデッ」
 またしても、杖で殴られた。
「ハクさんも行くですよっ」
「何で自分が……ははぁ、まだ恐いのか? あの男の事」
 一度ミカヅチ邸にはネコネと共に行った事がある。あの時のネコネは、ハクの後ろでミカヅチを威嚇していた。
「先日、色々菓子を頂いたので、お返しに酒でも持って行けと兄さまが……」
「ふぅん、さっきの手紙にはそんな事が書いてあったのか」
 ウコンがキウルに手渡していた手紙の事を思い出す。
「良いじゃないか、とって食われるワケじゃないんだから」
「恐いわけじゃないのです。ただ、どんなお酒を買ったらいいのかわからなくて……」
「まぁ、お子様はまだ飲めないからな」
 ハクの言葉に怒るかと思っていたのだが、ネコネはその言葉を無視したようだった。
「兄さまが、ハクさんについてきて貰えって書いてきたのです」
「ということは、明日は溝攫いしなくて良いって事だよな」
 オシュトルからの頼みであれば、そういうことだろう。溝さらいよりは、ネコネのお守りの方が体力的にはマシだ。
「仕方ないです。明日はキウルさんに頑張ってもらうです」
 キウルが聞いたら泣きそうだなと思いつつ、ハクはネコネの使いに同行することを了承した。
 彼女が戸を閉めていったのを見送って、ハクは再びゴロリと布団に寝転がった。ハクも、まだミカヅチに慣れたとは言いがたい。根は悪い男ではなさそうなのだが、何しろ顔が恐い。
 そんな事を思いながら、ハクはふとした疑問が浮かんできた。
「なんで、あの時直接自分に言わなかったんだ」
 先ほど白楼閣でウコンと会った時に話してくれていれば、ネコネとあんなやりとりをせずに済んだのではないか。
 何故か、そのことだけが引っかかった。

【三】

 翌日、ハクはネコネと近くの商店に寄り、酒を買い求めた足でミカヅチの屋敷へと向かった。屋敷が近づくにつれ、ネコネの歩みが遅くなるのを感じながら、ハクは屋敷の門をくぐった。対応に出た小姓のミルージュにミカヅチへの面会を求める。
「生憎、ミカヅチ様は外出しております」
「そっか。どうする? ネコネ」
 腰の辺りにしがみついているネコネを見下ろすと、あからさまにほっとした表情で前に進み出ると、ミルージュに酒を差し出した。
「こちら、先日ミカヅチさまから頂戴した菓子への返礼なのです。ミカヅチさまにお渡し願えませんか?」
「それは、わざわざ恐れ入ります。ミカヅチ様もお喜びになることかと」
 ミルージュはにこやかにネコネから酒を受け取った。
「それじゃ、自分達はこれで……」
 と言って外に出ようとしたとき、目の前のミルージュがあっと言わんばかりに口を開けた。その視線の先を追って後ろを振り返る。
(ゲッ……)
 ネコネも同じ思いを抱いていたようで、さっとハクの背後に回ると、威嚇せんばかりに尻尾を逆立てた。
「ミカヅチ様。お早いお帰りですね」
 一方のミルージュは動じる風も無く、ハク達の行く手に立ちふさがっているミカヅチに声を掛ける。
「つまらん会合だったので、早々に切り上げてきた。……それで」
 ミカヅチは、玄関の隅っこに避難した二人を一瞥した。「貴様達はここで何をしているのだ」
「ネコネ殿が、先日の菓子の礼にと、酒を持ってきてくださったのです」
「ほぅ」
 ミカヅチの目がギラリと光った、ような気がした。ネコネがビクリとハクの後ろに顔を隠す。ついでに外套をこれでもかというほど引っ張ったので、苦しい事この上ない。
「ネ…ネコネさん……コノママデハ死ンデシマイマス」
「用は済んだので早く帰るのです」
 ぐいぐいとさらに引っ張られる。
「ワカッ……、離シ……テ」
 だんだんと意識が遠のいていく。それに気づいたネコネがようやく手を離した。思い切り肺に空気を送り込んで、ハクはその様子を見下ろしていたミカヅチに向き直った。
「というわけだ。自分達はこれで失礼するんで」
「ちょっと待て」
 そう言って出て行こうとしたハク達を、ミカヅチは呼び止めた。
「聞きたいことがある」
「手短にっ…頼む」
 ハクの背骨をネコネが拳で殴っている。八つ当たりはやめて欲しい。
「オシュトルの事だ」
「オシュトルの?」
 その名前に、ハクはドキリとした。最近、ウコンやオシュトルの事で、やたらと心臓が忙しい。
「あやつ、何かあったのか?」
「どういうことだ?」
「いや……」
 ミカヅチは腕を組み、何やら腑に落ちないといった表情を見せた。
「今日の会合での奴は、珍しく上の空であったのでな」
 それは珍しい。ハクが見た限り、仕事をおろそかにしている所を見た事が無かった。しかし、
「そんなの、自分達が知るわけないじゃないか」
 たまにしか会う事の無いハクが理由を知るはずが無かった。
「それもそうだな……そっちの」
 ミカヅチは、ハクの後ろに隠れているネコネを覗き込もうとして止めた。
「チッ、まぁいい。酒はありがたく頂いておく。オシュトルには礼を言っておいてくれ」
「わかった。行くぞ、ネコネ」
「フゥゥゥッ」
 背中で威嚇し続けているネコネを宥めながら、ハクはミカヅチの屋敷から退散した。屋敷から出た途端、ピタリと彼女の癇癪は治まった。なんという切り替えの早さだ。
「兄さま……」
「ん、どうした?」
 ポツリと呟いたネコネを見下ろす。彼女は、頬を膨らませていた。どうやら怒っているらしい。
「兄さまが、大事な会合の場で上の空だなんて信じられないのです」
「いや、実際見たわけじゃないからなぁ。ミカヅチだけにはそう見えたのかもしれないだろ?」
「きっと、兄さまの評判を落とすための陰謀なので……ッ」
「物騒な事いうなよ」
 ハクは、慌ててネコネの口を押さえてあたりを見回した。「誰が見てるかわからんのだぞ」
 いのち大事に。
 そう心に刻み、ハクはネコネを促して歩き出した。
「しかし、お前さんはオシュトルの事になると、過剰に反応しすぎだぞ」
「だって、あの男が兄さまの事を悪く言ってるんですよ!」
「いや、むしろあれは……」
 心配しているのではないか?
 と思ったが、口には出さない。何故か、ネコネに反論されるのが目に見えていたからだ。
「そういう時こそ、悠然と構えておくのがいいと自分は思うんだけどな」
「そう、ですか」
 ネコネは途端に気落ちしたかのように尻尾を垂らした。「ハクさんは、あの男の言った事、本当だと思うのですか?」
「会合中、上の空だったって話か?」
 誰しも気が乗らないという時はあるとは思うが、あのオシュトルに限っては、そんな時があるとは思わなかった。
「本人に聞いてみればいいんじゃないか?」
 想像だけで話をしていても埒が開かない。
「じゃあ、ハクさんが聞いてください」
「はぁ?」
 ネコネが屋敷に戻った時に聞けばいいではないか。
 そう言おうと口を開きかけたとき、
「わたしは、今日は姉さまの部屋でお泊りなのです。なので、屋敷には戻らないのです」
「いいじゃないか、今からヒュッと帰ってピュッと白楼閣に行けば」
 まだまだ日は高いのだから、それくらい可能だろう。しかし、ネコネは頑なだった。
「ハクさん、暇なんですよね」
「う……」
 残念ながら、この後の予定は立ってはいない。
「ちゃんと、お酒を届けたことも伝えて来るですよ」
「ちょっ、ネコネッ、ネコネさん?」
 ネコネはそう言い放つと、さっさと白楼閣の方角へと歩いて行った。
 これは、嫌な仕事を押し付けられたのではないか。
「ったく……自分は便利屋じゃないぞ」
 ハクは仕方なく、オシュトル邸へと足を向けた。


 オシュトル邸の門前には、いつもと変わらず衛士が立っている。ハクは、小さなため息を吐きつつ、その門前へと立った。
「ハク殿。こんにちは」
 衛士がにこやかに迎えてくれる。もう彼らとも顔見知りとなっていた。
「オシュトル殿は屋敷に居るか?」
「はい。先ほど帰って来られましたよ。恐らく執務室に居られると思いますが」
「わかった。ありがとな」
 ハクは片手を上げて礼を言うと、まるで己が家かのように勝手に上がり込む。
 玄関から廊下を渡り執務室の前にたどり着くと、ハクは胸に手を当てた。
(ウコンとは何もなかった。ウコンとは何もなかった。ヨシッ)
 己に言い聞かせて、ゆっくりと息を吸った。
「オシュトル居るか?」
「ハク殿か、入られよ」
 障子戸の向こうからオシュトルの声がする。ハクは恐る恐る扉を開いた。彼は机に向かって何かをしたためている。
「ネコネの使いに付き合わせて済まぬな」
「別に、大したことないさ。お陰で溝さらいサボれたしな」
 ハクは普段と変わらないオシュトルにほっとした。オシュトルと机を挟んで向かい合わせに座ると、彼の筆の動きを追った。
「会合とやらから帰って来たと思ったら、早速仕事か?」
「仕事と言うほどのものではないのだが。頂戴した文の返事を書いていたところでな」
「ふぅん、恋文か?」
 オシュトルが、ふと顔を上げた。その視線にハクは顔を傾げる。何か、変なことを言っただろうか。
「そう言った類のものではないのが残念だな」
 彼はそう言って口元を緩めると、筆を置いた。
「某よりも、ハク殿の方が貰う機会が多いのではないか?」
「貰う訳ないだろぉ。絶対、お前は貰ってる。ウコンの時とかな」
「さて、それは彼(ウコン)に聞いてみてはどうか?」
 そういう時に限って、オシュトルは返答をはぐらかす。まるで、ウコンとオシュトルは別人だとでも言わんばかりに。ハクは、畳みかける。
「そう言うってことは、絶対貰った事あるんだろ。はーヤダねぇ、モテる男は」
「ハク殿……」
 オシュトルはハクの言葉にため息を吐くと、座を立った。
(やべ、怒らせたか?)
 口は災いの元とはよく言ったものだ。オシュトルはゆるりと立ち上がると、奥にあった箱の中をゴソゴソと探っている。その中から水色の羽織を取り出し肩に掛けると、髪の毛と付け髭を装着してハクを振り返った。
「なんでぇ。疑り深ぇな、兄ちゃんは」
「お、ウコン……」
 全体的にオシュトルの衣装のままだが、ウコンに変装した彼は、ずかずかとハクの前まで歩み寄ってきた。
「もう一回、聞かせてもらおうじゃあねェか」
「な、何?」
 顔こそ笑顔だったが、何故か怒っているような気がした。ハクは座ったまま後ずさった。
「恋文がどうとか言ってただろう?」
「お前が、恋文くらい貰ってるだろって……」
「俺が、そんなモノ貰えると思ってンのかい、アンちゃんは」
「そ、そりゃぁ……」
 ハク自身、絶対に言えないがウコンには好意を持っているのだ。それに、オシュトルは民衆に人気がある。そうとなれば、惚れる女性も少なくはないだろう。
「思ってる」
 素直に、ハクはそう言った。
「お前は気付いてないかもしれないが、モテるよ。絶対」
 何故だか心がチクリと痛んだ。
 ハクの言葉に、ウコンは目を細めると、ポンポンとハクの頭を叩いた。
「うれしい事言ってくれるじゃないか。ありがとな、アンちゃん」
 だが、とウコンは付け加えた。
「本当に、そういうのは貰ったことはないぜ。ウコンとして街に出てると、もっぱら寄ってくるのは、むさ苦しい漢共だしな」
「確かにな」
 それには、少し同意する。見た目は優男だが、ウコンは頼れるアニキと言った感じで、少し人相の悪そうな漢達にも人気があるようだった。
「という事で、この件は終いにしよう」
 気付けば、オシュトルはさっさとウコンの衣装を脱いでいた。「茶でも飲んで行かれるか? ハク殿」
「……いや、ただ報告に来ただけだから帰るよ」
 何故か、唐突に突き放された気がして、ハクは呆然とオシュトルを見た。彼は障子戸を開けると、廊下に出て空を見上げた。
「今宵は、ネコネはそちらに世話になるようだな。クオン殿によろしく伝えておいてくれぬか」
「わかった」
 はオシュトルに頷くと、彼に背を向けようとして立ち止まった。本来の目的は別にあったはずだ。
 ハクはオシュトルに向き直ると、口を開く。
「そういえば、さっきミカヅチに聞いたんだが」
「ミカヅチ殿に?」
「お前が会合の最中、上の空だったって」
「某が……」
 言いかけて、オシュトルは口を閉ざした。庭から光が差し込み、オシュトルの目元に影が落ちたため、その表情を読み取ることはできなかった。
「少し」
 暫しの沈黙の後、オシュトルは口を開く。
「考え事をしていたのだ。先日、ウコンが寝ていた宿屋について」
 その言葉に、ハクの心臓が大きく高鳴った。彼は何か思い出したのだろうか。
「ハク殿は、あの夜の事はまだ思い出せないのであったな」
「あ、あぁ。相当呑んでたみたいだからな。でも、お前は白楼閣に文を届けてくれたんだろ?」
 そのおかげで、クオンに怒られずに済んだのだから。
「あれは、深夜までに戻らなければ、ハク殿が怒られると思った故、あらかじめ用意しておいたのだ」
 そう言うと、オシュトルは口元を歪めた。「まさか、某まで朝帰りになるとは思ってもいなかったのだがな」
「そうだな」
「何はともあれ、二人とも何事もなく無事に帰れたのだから、良かったではないか」
「…そう、だな」
 やはり、二人の間には何もなかったのだ。それをオシュトルに直接確認できて安心した。二人とも記憶がなかったのだから、何も起こらなかったに違いない。
「じゃ、自分は帰る」
「そうか。ご苦労であった」
 ハクはニコリと笑みを返すと、オシュトルに背を向けた。



【四】

 宿屋で目を覚ました日から、数日後。
 その日ハクは、マロロを誘って行きつけの呑み屋に来ていた。
「まさか、ハク殿から誘ってもらえるとは思っても見なかったでおじゃ」
 マロロは嬉しそうに耳をパタつかせた。「近頃はマロの懐具合を慮ってか、誰も誘ってくれないでおじゃ」
 それは、そうだろう。なにしろマロロの給料は、父親の借金返済で消えていくらしいという話を聞いては、気を使うなというほうが無理である。
「たまには、な」
 実を言うと、またあの日のような事が起こったらと思うと、ウコンを誘いづらくなってしまったのだ。代わりにマロロを誘ってみたわけだったのだが、ハクは心の中でマロロに詫びた。
「マロは何呑む? 今日は自分が奢るぞ」
 クオンから給料を貰ったばかりなので、今のところは懐が暖かい。豪勢にというわけにはいかないが、チビチビ呑む分には問題はなかった。注文を済ませて、お互いの近況を語る。
「ハク殿は、毎日溝さらいに精が出るでおじゃるなぁ」
「褒められてんのか、よくわからんな。それ」
「褒めているでおじゃるよぉ。マロには到底無理でおじゃるからな」
 確かに、マロロは体力仕事にはとことん向いていないように思う。しかし、体力仕事に向いていないのはハクとて同じである。子供が軽々と持ち上げられる荷物でさえ、ハクは死ぬ気でかからなければならないのだ。
「体動かした分、酒が美味くなる。それはいいことなんだけどなァ」
 翌日の筋肉痛さえなければ。
 酒と酒菜が運ばれてきた。お互いに酒を注いで口に運ぶ。口の中に広がる果実の風味。甘いものが好きなハクは、この果実酒がお気に入りだった。そんなハクの耳に、近くで呑んでいた女性たちの会話が入ってきた。
「あら? 貴女、首に赤い痕が付いているわよ」
「うそっ。何処?」
「ホントだ~。ふむ。こっちにも付いてる。……さては、貴女の良い人がいたずらしたわね」
 ハクの盃を持つ手がピクリと止まる。彼女たちの会話から意識が逸らせない。
「もぉっ、見える処に痕をつけるなって言ったのに……。人の肌に吸い痕付けるのが趣味なのかしらねぇ。中々消えなくて困って……」
 ガタンという椅子の音に、彼女達が怪訝そうに顔を上げた。隣の卓の男がいきなり立ち上がったのだから、驚かないはずがない。
「ハク殿? どうしたでおじゃ? もう酔ったでおじゃるか?」
「……いや。そういうわけじゃないんだが……」
 ハクはのろのろと腰を戻した。
 マロロには、今の女性達の会話は耳に入っていなかったらしい。いや、耳に入っていたとしても、別段驚くような内容ではなかった。
 ――自分以外には。
 ハクは、数日前に見つけた己の内腿に残された痕を思い出していた。薄くなったその痕は、今もハクの体に残っている。
 己で付けるのは不可能な場所だった。では、それを残すことが出来るのは一体誰だったのか……。
「マロ! ちょっと急用思い出した。これで支払い済ませといてくれ!」
「ちょッ、ハク殿~」
 釣りが来るくらいの金を卓に置いて、ハクは居酒屋を飛び出した。向かう先は一つしかない。
(――オシュトル!)
 彼は、酔って寝ていて覚えてないと言っていた。それをハクも信じた。そうだ、二人の間には何も無かった。男同士だから当然だと。
 ――ウソを吐かせたのは、自分だろうか。
 あの日、ハクは目の前の光景を信じられなかった。
 己のひた隠しにしていた欲望が、目の前で具現化したかのように思えたからだ。
 親友だと思っていた男が隣で寝ていた。しかも裸で。
 何かあったはずが無い。そう言い聞かせて、一人で宿を飛び出した。
 何も言わずに出て行った事を、ウコンはどう思っただろうか。
 今も、あの日本当は何があったのか、薄い膜が掛かっているかのように思い出すことはできない。
 ただ、何かを忘れている。それだけは確信があった。

 ***

(そうだ、何でこうしなかったんだよ)
 ハクはあの日宿泊していた宿の前に立った。決して繁盛しているとは思えない、汚れた外観の宿だった。入口に申し訳程度の明りが灯っている。ハクは、恐る恐るその扉を開けた。
「らっしゃい」
 およそ愛想の良いとは思えないしわがれた声が、入口から上がったところにある番台の奥から聞こえて来た。ハクは上がり框に腰を下ろすと、声を潜めた。
「親父、ちょっと聞きたいことがあるんだが」
「何だね。客じゃないなら帰りな」
 ハクの顔をちらりと見た男は、追い払うように手を振った。
「違うんだ。こないだここに泊まったんだけど、宿代支払った覚えがなくって……確認して欲しいんだ」
 そう言って、ハクは泊まった日を男に告げた。金を支払われていないとすれば、宿としても不利益を被っている立場だ。調べないわけにはいくまい。男は渋々と宿台帳を開いた。
「――その日は、一組しか泊まっとらんよ。確かに結構酔っぱらっていたみたいだからのぅ」
 番台の男は顎をつるりと撫でた。
「それって、自分だったか? 二人連れだったと思うんだけど」
「いや、お前さんだったかは知らん。顔は見てないからのう。髭の男が酔いつぶれた一人を担いでここまで来ていたのは覚えとる。宿台帳の名前はウコンとなっておるの。その男が前払いで全額支払っておるよ」
「……そうか」
 その言葉で、ハクは確信した。
 ウコンは決して酔いつぶれていたわけではないのだ。酔いつぶれたのはハク一人だった。何故嘘をついたのかはわからなかったが、この脚に残った痕の理由もそこにあるのかもしれない。
「ならいいんだ。迷惑掛けたな」
 ハクは重い足取りで宿を出た。
 既に辺りは闇色が濃くなっていた。明りを頼りに、ハクは白楼閣の道を歩く。
「ちょっと、あんた!」
 そんなハクを、宿屋の男が追いかけてきた。
振り返ると、何か紙のようなものを持って、こちらへ走ってきている。
「なんだ、取り立てか? もう払いは終わってたんだろ」
 男は違う違うと、手を横に振った。
「思い出したのさ。あの日の朝、あんたか連れのどっちか知らないが、忘れ物をしてたんだよ」
「忘れ物?」
 首をひねるハクに、男は手に持っていたものを差し出した。「あんたが知らないっていうなら、もう一人の男の方さね。返しておいてくれないか。頼んだよ」
「ちょっと、まて……っ」
 ハクが返答する間もなく、男は宿の方へと急ぎ足で帰って行った。手元に残されたのは、まるで書状のように何かを包んでいるものだった。見た目は文のようだった。しかし表に宛先は書かれていない。これでは、本当にウコンのものなのか確認ができない。
 逡巡した挙句、ハクは恐る恐るその紙包みを開いた。
 中に入っていたのは、詩をしたためた短冊だ。

 ≪毎夜見る 夢の伴侶は 黒髪の君≫

 恋の歌だった。紛れもなく。
 そしてこの筆跡には見覚えがある。いつも見ているのだから間違えようもない。
「これはオシュトルの――」
 そこで、ハクは顔を上げた。抜けていた記憶が、唐突に蘇ってくる。
(思い、出した)
 あの夜の飲み屋での出来事を。





 ***

「へぇ、誰に宛てた歌なんだ、コレ?」
 ふとした拍子にウコンの懐から落ちた紙包みを拾い上げたハクは、わずかに包みから覗いた短冊を見て、ウコンにそう聞いた。
 字からして、彼が書いたものに違いなかった。
「何でェ。そんなの誰にだっていいじゃねぇか」
 ぶっきらぼうに、彼はそう言った。その時、意外にもウコンは動揺していた。だから、ほとほとに酔っていたハクは、つい面白くなってしまったのだ。
「もしかして、自分の知っている女子だったりして。クオンとか、ルルティエとか」
 己の知っている限りの女子の名前を上げてみる。しかし、ウコンは渋面を崩さぬまま盃に口をつけている。
「なんだよぉ、もったいぶってないで教えてくれてもいいじゃないか」
「アンちゃんが知っても、多分面白くないと思うぜ」
 ということは、本当に好きな人を詠んだ歌なのか?
 ウコンの言葉に、ハクは己が落ち込むのを感じた。
 男である己を見て欲しいとは思ってはいない。クオンについてきてたどり着いたこの地から、いつ去るともわからないのだ。だからその時まで、誰も選んでほしくない。そんな思いがあった。
 ハクの思いとは裏腹に、ウコンは、重い口をようやく開いた。
「誰にも言わねぇって誓うかい?」
「わかってるって。二人だけのヒミツだ」
「そうか……」
 そう言って、ウコンは身を乗り出し、ハクに顔を近づけるように手招きする。同じように身を乗り出したハクの耳元に、彼は囁くほどの声音で、
「おめぇさんだよ」
 と言った。
「は?」
 思わず聞き返す。「誰だって?」
「だから、アンちゃんだって」
「はぁぁ?」
 何を言われているのかわからなかった。一層酔いが回って来たのか、顔が熱くてしかたない。
「じょーだんはよせやい」
 呂律まで怪しくなってくる。
「冗談でこんな事言うと思うか?」
 椅子に座りなおしたウコンは、少し怒ったように唇を尖らせる。「野郎が好きなんてサ」
 ハクはその場に立ち尽くしたまま、ウコンを見下ろしている。この動悸は酔っているせいなのだろうか。
「おもうって、そんなつごうのいい話、しんじねぇぞ」
「都合のいいって、どういうこった」
 ウコンが顔を上げる。彼の濁りのない赤みを帯びた瞳が、じっとこちらを見つめている。その目に射すくめられたかのように、心臓が苦しくなった。ハクは、途切れ途切れに言葉をつなぐ。
「だって……じぶんは、お前の事が」
「おい、ハク?」
 グルグルと地面が回る。背中に力強い腕のぬくもりを感じながら、世界は暗転した。


 闇の中で声がしたような気がした。
「なぁ、ハク。俺は本当にお前の事が好きなンだぜ」
「じぶんも、お前の事……」
「酔っているお前さんの言葉には説得力が感じられないねェ」
「本気らって」
「わかった。じゃあ、朝起きてアンちゃんが覚えていたら、もう一度告白するぜ」
「ぜったい覚えてるからな~」
「わかったから、酔っぱらいは早く寝ろよ」
 体を横たえられると、抗いようのない睡魔に襲われた。
「また、明日な。アンちゃん」
 頭を撫でながら、優しい声音でウコンが囁く。その心地よさに、ハクは深い泥のような眠りへと誘われてゆく――。


 ――あの朝、約束を忘れて逃げだしたのは自分だ。
 だから、ウコンは知らないふりをしたのだ。あの日、二人の間に何もなかったと。


【五】

 宿屋から呑み屋には戻らず、ハクは白楼閣へ向かっていた。すっかり暗くなった道をほたほたと歩く。その空は己の心のように暗く曇って見えた。
(どうしたらいい、自分は……)
 彼は、きっと酔った勢いで口をついた戯言だと思ってくれたのだろう。だから、その後もずっと親友として接してくれていたのだろう。
 だが、あの日を境に二人の関係は微妙に変わってしまった気がした。彼との間に見えない壁のようなものをハクは感じていた。
(違うんだ、ウコン)
 彼の想いを知った今、ハクには今まで通り彼と親友として笑いあえる自信がなかった。彼のように、どこか一線を引いて接してしまうのではないか、そんな気がした。
 だから、もう忘れるなんてことはしない。これが、世の常ならざる想いでも、構わない。

「自分は、お前の事が好きなんだ」
 誰もいない道端で、そう呟いた。胸を覆っていた雲が晴れたような思いだった。

 もうすぐ白楼閣に着こうという時、ハクは白楼閣の手前の塀近くに、小さな提灯の明りが灯っていることに気付いた。そこに浮かび上がる影の主は、ハクが今一番会いたい男だった。
 逸る心を押さえつつ、ハクは男に歩み寄った。ハクの姿に気付いた男は、「よぉ」と小さく手を上げた。
「ウコン……」
「アンちゃんが、マロロと呑みに出かけたって聞いたから、ちょっと待ってた」
 どれくらい待っていたのだろうか。提灯の中の蝋燭は、かなり短くなっていた。
「なんで?」
 ハクは、つい聞き返していた。「もしかして、また酔いつぶれないか心配したのか? マロロとどっかの宿で寝てないか」
 ウコンの目が見開かれる。
「アンちゃん、思い出したのか?」
 彼の問いに、ハクは首を振った。
「完全に思い出したわけじゃない。けど、あの日お前の気持ちを聞いたのは思い出した」
「……そうか」
 ウコンは、空いている手で頭を掻いた。
「しこたま酔っぱらってたから、忘れてるかと思ったぜ」
「忘れて欲しかったのかよ。じゃあ、なんでココに痕を付けたんだ」
 ハクは、今は隠れて見えない内腿を指さした。今は殆ど消えてしまったその痕は、あの日付けられたものに違いなかった。
 二人にしかわからない。秘密の痕跡。
「そうだな。俺は、忘れてほしくなかったのかもしれねェ」
 ウコンは塀にもたれていた体を起こすと、ハクの正面に立ちふさがった。「それが、酔いにまかせた戯言だったとしても、お前さんが、俺の事を好きだと言った。それを忘れて欲しくなかったのサ」
 やっと、迷い続けていた迷路から、抜け出せたような気がする。ハクはウコンの羽織の袖を引いた。もう一度、彼にこの言葉を告げなければならない。
「ウコン。自分は、お前の事が好きだった。ずっと」
「俺もだ。ハク」
 ウコンは、愛おしいものを見るように、目を細めた。
 彼の手がハクの背中に回る。そのまま引き寄せられたハクは、暫しの間ウコンに抱きしめられていた。

 ひとつだけ、まだわからないことがあった。ハクは顔を上げてウコンを見上げた。
「あの日、本当に何もなかったのか?」
 尻が痛いこともなかったし、恐らく何もなかったと思うのだが。初体験で記憶がないとなるととてつもなく悲しいような気がした。
「さァね。どうだと思う?」
 ウコンはまるで、悪戯を隠しているかのような表情でハクを見た。「確かめて見るかい? それで、痕を付けたのが、本当に俺かどうか」
「……」
 それは、誘いだろうか。
「そーだな。お前だけ知ってるって、なんかずるいし」
 ハクは差し出された手を握り返した。

 ウコンが連れて来たのは、先ほどハクが確認に来た宿屋だった。
「一泊いいかい?」
「おや、さっきの」
 ウコンの影に隠れていたハクは、おやじに見つかってバツの悪い顔を出した。
「酒もつけてくれると嬉しいンだがな」
「はいよ」
 追及の言葉を遮るように、ウコンはそう言ってハクを己の背中に追いやった。酒を受け取った彼は、それをハクに渡すと、先に部屋に行くように促した。
 言われるままに、ハクは窮屈な階段を上り、先日泊まった部屋の戸を開けた。今は床に敷かれてあった布団は引き戸の奥に仕舞われているようだ。
 確かめるって、一体どうやって確かめるというのだろうか。そわそわと部屋の真ん中で立っていると、遅れてウコンが部屋に入ってきた。
「何してるんだ? アンちゃん」
「い、いやっ。何でもない」
「じゃあ、飲もうぜ」
 ウコンはそう言うと、ハクが手に持っていた盆を床に置き、ハクに座るように促した。盆を挟んで二人向かい合わせに座る。
 そこで、ハクは懐に入れていた物を思い出した。
「そうだ、これ落ちてたって宿屋のおやじが」
 そう言って、ハクは例の短冊の包みを手渡した。それを見たウコンは、苦笑いを浮かべながら受け取った。
「ここに落としてたのか。通りで見つからないはずだぜ」
「気にしてたのか?」
「あァ。もしかしたら、お前さんが持って行ったのかと思ってたんだが。ミカヅチに見透かされるくらいには、動揺していたってことかな」
「それって、オシュトルの様子がおかしかったって言ってたやつか」
 これが原因だったのか。少し意外だった。こんなもの一つのために、オシュトルが気を散らされてしまうとは。
「そんなに動揺することか?」
「お前さんが持ってるかもっていうのが、俺の気持ちを乱したのさ」
 そう言うと、ウコンはハクに盃を手渡した。縁一杯に満たされた酒に口をつける。
「あの日の事を、忘れたわけじゃなかったのかと思ってな」
「忘れていて、欲しかったのか?」
 お互いに好きだと言った事を。
 酒を一口飲んだウコンは、盃を盆に戻す。
「そうかもしれねぇ。あの日、俺はお前さんが宿から早足で去っていくのを見ていたからな」
 眠っていたと思っていたのだが、あの日ウコンは起きていたらしい。
「なんで、引き留めなかったんだ?」
「お前さんが、言ったのさ」
 ――お前とは、何も無かった。……そうだよな?
 ハクが、眠っていると思っていたウコンに投げかけた言葉だった。
「それを聞いたとき、お前さんは、自分の気持ちを知られたくなかったんだと思った。だから、俺も何も聞かなかった事にしたのさ」
 そうさせたのは、己のせいだった。
 ハクは、改めてそのことを悟った。親友に下心を持ったことを知られたくなかった。そして、ウコンはその願いを叶えてくれていたのだ。彼の優しさにハクは守られてきた。
「……すまん」
 胸の奥が熱くなる。ハクは絞り出すようにそう呟いた。
「なぁ。例の痣見せてくれねェか?」
 ウコンは、酒を載せている盆を横に追いやると、胡坐をかいているハクの膝の前に手をついた。
「イイけど……」
 男同士とはいえ、じっと見つめられるとなんだか脱ぎにくい。ハクはウコンに背を向けると、帯を解いた。
 下穿きだけを脱ぐと、≪待て≫を言い渡された子犬のようにじっと待っているウコンを振り返った。
「ここ」
 ハクの指をさした場所に、一か所だけシミのような茶色い痣がほんのりと残っている。「前はもっと鮮明に残ってたんだけどな……お前がつけたんだな」
「そうさ。一瞬でも俺のモノにしたっていう証を残しておきたくてな」
 ウコンは懐かしいものを見るかのように、内腿に指を這わせる。他人に普段触れられることのないその場所は、敏感に彼の指先を感じていた。
「や、やめろって」
「思い出したいんだろ? あの日のコトを」
 ハクを見上げて、ウコンが笑う。「だから、お前さんはここまでついてきた。そうだろ?」
「そうだけど……」
 どう考えても、この宿の壁は薄そうだ。今の会話も、隣の部屋には筒抜けなのではないだろうか。
「ウコン、本当に自分でいいのか?」
 こんな、素性もわからない男なんかを。
 そう言いかけたハクの唇を指で押さえて、彼は片目を瞑る。
「そんなのは関係ない。分かってんだろ? アンちゃんも」
 開きかけた口を、ウコンに塞がれる。少しかさついた、しかし柔らかい唇の感触だった。ハクは唇に感覚を集中させるように、目を閉じた。ただ、触れるだけの口付け。どれくらい経ったのかわからない。ゆっくりと離された唇を名残惜し気に感じながら、ハクは目を開けた。
 目の前に、ウコンがいる。それだけで、胸がいっぱいになる。
「ハク……」
「ん」
「好きだぜ」
「自分も……」
 それ以上の言葉はいらなかった。お互いを求めるように、二人は肌を重ね合った。

 ***

 静寂の時間が戻ってくる。
 ハクの顔に張り付いた髪の毛を払いのけながら、ウコンが笑う。つられてハクも微笑んだ。
「これで、戻れなくなっちまったな」
「そうだな」
 すでに、親友という関係を超えてしまった。ハクは頭の後ろで手を回すと、あくびをした。
「でも、なんか吹っ切れた。そんな気がする」
「そうか。そいつはよかった」
 ウコンは体を返してハクの隣に寝転がると、ハクと同じように頭の後ろに手を回す。
「俺も、気兼ねなくアンちゃんに手を出せるようになると思ったら、なんか安心したぜ」
「間違っても、皆の前で手を出さないでくれよ」
 特に、ネコネの前とか。まだ死にたくないから。
 それには、ウコンも同意した。
「そういえば、今日泊まるってあいつらに伝言するの忘れてた」
「なに?!」
 ウコンの言葉に、ハクはがばと起き上がった。「じゃあ、自分はこれで……」
「待てよ、アンちゃん」
 服を着ようとして手を伸ばしたハクの腕を、ウコンが掴む。
「もう夜も遅い。明日謝ればいいじゃねぇか」
「だけど……」
 先日のこともある。あまり突っ込まれるようなことはしないに限るのだが。
「じゃあ、こう言おう。帰したくない、ハク」
 ウコンはそう言うと、ハクを己の胸の上に引き寄せた。
「ウコン……」
「アンちゃんは、俺と一緒にいたくはないのかい?」
「そりゃぁ、一緒にいたいけど」
 彼の熱い体に、再び火が点きそうになる。それを隠して離れようと、ハクはウコンの胸に手を置いた。
「ぐ……」
 しかし、ウコンの腕っぷしにハクが敵うわけがなかった。ウコンに抱きすくめられたまま、ハクは起き上がることもできない。
「おい、ウコン……っ」
「ヤだね。絶対に離さねぇ」
 まるで駄々っ子のように、ウコンが唇を尖らせた。
「また、あの朝みたいに俺を置いていくかもしれないからな」
 その言葉に、ハクの手の力が緩む。あの日、己が逃げ出さなければ、こんなすれ違いは起こらなかったのかもしれない。
 ハクは観念したように体の力を抜くと、ウコンの胸の上に顎を乗せた。
「わかったよ。今晩だけな」
「ありがとな。アンちゃん」
 ウコンはそう言うとハクの顔に両手を添えた。何をしようとしているのか、ハクにはもうわかっていた。体をずらしてウコンと同じ視線の高さになると軽く目を閉じた。そして導かれるままに、ウコンと何度目かの接吻を交わすのだった。


 夜明けごろ、二人の姿は朝霧に紛れて街中へ消えていった。
 それを見ていた者がいたのかどうかは、定かではなかった。ただ、晴れやかな顔で二人が出て行ったのを見た宿屋の店主だけが、二人の関係を心の内に閉まっていたという。


・おわり・