夢を見た。
それは、かつて自分が暮らしていたシェルターでの出来事だった。
姪っ子である【チィ】が、両手で持てるほどの細長い木の枝を部屋へ持ってきたのだ。それは、すでに廃れて久しい風習なのだと、義姉の【ほのか】が教えてくれた。
「七夕に、笹に願い事を書いた紙を吊るしておくと、その願い事が叶うんですって」
「へぇ。チィちゃんは何をお願いしたんだ?」
「うーんとね。おじちゃんに早くカノジョができますようにって」
「余計なお世話だ」
そんな二人のやり取りを微笑ましく見ていたほのかが、細長く切った色紙とペンを手渡してくれた。
「ほら、貴方もなにか願い事を書いたら?」
「願い事ねぇ……」
この荒廃した世界に、何を願ったところで叶うはずもない。
そう思いつつも、期待に満ちた眼差しに、自分はしぶしぶとペンのキャップを開けた。
自分の願いは――。
そして、いつもの朝が来る。
「……ねむ」
あくびをしながら、ハクはのそのそと寝所を出た。夢を見ると、必ずと言っていいほど寝たりなくなる。そのまま布団に転がっていたいところだが、そうすればクオンの尻尾が頭に巻き付くことになるので、それだけは避けたいハクであった。
厠へ行って水場で顔を拭く。湿気が多いのか、じっとりと纏わりつくような空気に、既にやる気は失われつつある。
どうすれば、仕事を怠けることが出来るだろうかと頭を悩ませながら廊下を歩いていると、何やら色とりどりに揺れるものが目の端に留まった。
「これは……」
庭の一角に、一本の細長くしなる青々とした木が立っていた。中心の幹から、いくつもの細い枝が張り出し、細長い形の葉がついている。
まるで、夢でみた【笹】のような木であった。
「これは、かつて私の主様から教えてもらった古代の風習なのですわ」
いつの間にそこにいたのか、白楼閣の主人であるカルラがそう説明してくれた。
「風習?」
「空に、小さな星々の川が見える時期に、こうやって木に願い事を書いた紙を吊るしておくんですの」
「……そしたら、願いが叶うって?」
「ええ」
ハクはもう一度、その木を見た。ここからでは、既に下がってある紙の願いの内容は見ることはできなかった。
「あんたも、願いを書いたのか?」
「当然ですわ」
「叶ったのか? その願いは」
「……それほど容易な願いを書いたりはしていませんもの」
それはそうだろう。それほど神様は太っ腹ではない。
「今宵、ささやかですが星見の宴を催したいと思っておりますの」
「酒がでるのか?」
ええ、と女主人は頷いた。「人は多いほど楽しいというもの。貴方の大切な方がいらっしゃれば、是非お誘いくださいな」
そう言って、彼女は微笑んだ。
(大切な人、か)
「タダ酒ほど旨いものは無いな。アンちゃん」
既に何倍目かわからない酒を杯に満たしながら、隣でウコンがそう言った。
「そうだな」
それについては、異論の余地はない。
星を見る事が本来の目的なのだが、全くと言っていいほど、星を見ている者などこの場にはいなかった。
ハクは、注がれた酒を呑みつつ、横目でウコンを見た。
女将に言われて一番に思い浮かんだのはウコンだった。白楼閣に居る面々には声をかけずとも集まるだろうし、唯一この白楼閣へ呼ぶとするなら彼しかいないだろうと思った。
(決して、大切な人とかじゃないからな。うん)
心の中で否定しつつも、目はウコンを追っている。少し赤らんだ顔の彼が、ハクを見てニカリと笑った。
「な、ナンダヨ」
「なァ、アンちゃん。ちょっと酔い覚ましに、庭に出ないか?」
「いいけど」
その笑顔にドキリとしたのを悟られてはいないだろうか。ハクは平静を装いつつ、ウコンについて庭に出た。
夜空には、満点の星空が広がっている。
女主人が言っていた星と言うのはどれのことなのだろう。見上げてみても、星に詳しくはないハクにはとんとわからなかった。
「夜は過ごしやすくていいねぇ」
「ああ、そうだな」
庭には、月の光を受けて、願い事を吊り下げている木が揺れている。朝見た時よりも、その願い事の数は増えていた。
「あの木に吊り下げてある紙は何なんだ?」
ウコンが、その木を指さして訊く。
「ああ、あれは……」
ハクは今朝がた女主人から聞いた風習について説明した。すると、ウコンは興味深そうにその木の前まで歩いて行った。「アンちゃんの願い事もこの木に結んであるのかい?」
「へッ?」
今にも探し出しそうな雰囲気のウコンを慌てて止める。「ヤメロよ。見られたら願いが叶わなくなるだろっ」
「信じてるんだ、アンちゃんは」
「そりゃ、そうだろ」
そうでも言わなくては、ウコンがやめてくれそうにない。「願いが叶わなくなったらオマエのせいだからなっ」
「なんだよ、ケチだねぇ」
手につまんでいた紙をはじいて、ウコンが口を尖らせた。「ちなみに、わが妹は『背が伸びますように』と書いてあったぞ」
「やめて差し上げろ」
これで、成長が止まったとしたら、ウコンのせいだからな。ネコネ。
ウコンは縁側に戻ってくると、腰を下ろしてあらかじめ持ってきていた徳利とお猪口を手に取った。
「なぁ、アンちゃん。あの星見てみなよ」
「ん?」
不意にウコンが空を見上げて、星の一群を指さした。「まるで、空の川みたいに小さな光が集まってるぜ」
「本当だな」
あれが、カルラの言っていた星々の川ってやつだろうか。
「なぁ、本当に教えてくれないのか?」
「意外にしつこいな、お前」
どうやら、ハクが書いた願い事が気になるらしい。「ダメだって。お前だって誰かに願い事見られたら怒るだろ?」
「俺はアンちゃんにだったら、教えてやってもいいぜ」
この男に常識を説いたのがムダだった。
「俺が書くとしたら、『アンちゃんが、ずっと俺の事を好きでいてくれますように』って書く」
「は?」
「ホラ言ったぜ。今度はアンちゃんの番だ」
縁側に胡坐をかいたウコンは、膝に頬杖をつくと、下から覗き込むように、ハクを見上げている。
「ず、ズルイぞ。ウコン」
「ほら。何て書いたんだい?」
好奇心いっぱいにこちらを見つめているウコンに、とうとうハクは折れるように口を開いた。
「……長生きできますように」
「なんだそりゃ」
「いいだろ。自分は長生きしたいんだから」
「ハハッ。そりゃぁ聞いて済まないコトしたなぁ。アンちゃん」
まるで悪びれる風もなく、ウコンはバシバシと背中を叩いた。「てっきり、アンちゃんも俺と同じような事書いてると思ったんだがなぁ」
「だ、誰がだよっ」
ウコンの言葉にギクリとしつつ、ハクは空のままのお猪口を手に取った。「自意識過剰なヤツだなぁ」
――本当は。
「いいじゃねぇか。ちゃんとアンちゃんに愛されてるか、知りたかったのサ」
ハクは、嘘を吐いていた。本当は、長生きできますようになんて願い事を書いてはいなかった。
「そんな紙の上だけでいいのか?」
ウコンに注がれた酒を飲み干し、ハクは訊く。「大事なのは、コッチだろ?」
己の胸を指さす。
「違いねぇ」
ウコンは口元をゆがめると、お猪口を置いて膝を詰めて来た。彼の息が、かかるほどに近くに顔がある。
「俺のコト。好きかい?」
「……知ってるくせに」
そのまま、触れるだけの口吻け。それだけで満足したのか、ウコンは満面の笑みを浮かべると「替わりを貰ってくる」と言って座を離れた。
一人になったハクは、懐から一枚の紙を取り出した。
願い事を書いた紙は、まだ結び付けてはいなかった。まだ戻ってきそうにないのを確認すると、己が届く一番高い位置に結び付けた。
たどたどしい文字で書いた願い事。
――この日常が永遠に続きますように。
オシュトル――ウコンとの平穏が、永遠に続けばいい。そんな願いを込めた一文だった。
叶わないと分かっていても、願わずにはいられない。
「アンちゃん、ちょっとこっちに来て手伝ってくれー」
座敷の方からウコンの呼ぶ声がする。
ハクは一度、願い事の紙がちゃんと結んであることを確認すると、ウコンの呼ぶ座敷へと速足で戻っていった。
-おわり-