船室の中に、月明かりが射し込んで来る。
あまりの眩しさに、ハクは覚醒した。目を擦り辺りを見回す。寝所として使われているこの船室には、己たち以外にも船で働いている男たちが雑魚寝していた。女性陣は別の部屋で寝ているため、男臭いことこの上ない。
どこからともなくイビキも聞こえてきていたが、そのうるささで目覚めたのではなかった。
(お前のせいか)
寝ている人を起こさないように男たちを跨いで壁際へと向かうと、申し訳程度に開いている明かり採りの窓を見上げた。
暗く不気味な空と波が、窓の外に広がっている。ただ、その中で月だけが皓々と海を渡る船達を見守っていた。
――月は、あの男を思い出す。
白い仮面の奥から見つめる、赤みがかった瞳を。
そして、引き寄せられた腕の痛みを。
***
トゥスクルへ侵攻したムネチカ達への物資を届ける役目をオシュトルから依頼されたあの日、密かにオシュトルと二人きりになったハクは、彼の腕に抱かれながらこれからの事を考えていた。
「何を、考えている?」
ハクの背後から腕を回し、その体を包み込んでいるオシュトルが、耳元で囁いた。
「某には言えぬことか?」
「そんな大したモンじゃないさ。ただ、なんで今なのかと思って……」
帝――兄――がトゥスクル侵攻を決断したと聞いたとき、耳を疑った。先だって帝都に遣わされて来たトゥスクル使節団の二人とはハクも何度か顔を合わせていたからだ。クオンが姉と言って慕っていた二人は、とても敵意があるようには思えなかった。
だから、兄に問われたとき、侵攻には反対した。だが、それは形式上の問いかけに過ぎなかった。兄は、侵攻を取りやめる気など最初からなかったのだ。
(人が、死ぬんだぞ)
ハクは奥歯を噛み締めた。
戦でなくとも人は死ぬ。だが、戦がなければ死ななかった者たちが大勢死ぬことになるのだ。
オシュトルは、そんな心中を見透かしたかのように、ハクの膝に手を置いた。
「帝には、帝のお考えがある。我等はそれに従うだけだ」
トゥスクルに眠る遺跡に、大勢の人命を賭けるほどの価値があるのだろうか。
「そうかもしれないけど、なっ」
ハクは頬を膨らませると、胡坐をほどき、伸ばした足を床に突っ張った。その力で己を抱きすくめているオシュトルの体をぐいぐいと後ろに押し倒す。
「おい、何をするっ」
突然のハクの行動に、オシュトルは焦りの声を上げた。
懸命に後ろに倒れまいと踏ん張るオシュトルに構わず、ハクは背中でオシュトルの体を押す。やがて耐え切れなくなったオシュトルの体が、後ろにひっくり返った。
「くっ」
肘で上半身を起こしたオシュトルの体に凭れかかったまま、ハクは笑った。
「ハハっ。自分の勝ちだ」
「一体何の勝負をしているのだ、ハク」
「何もないさ。ただ、何となくお前さんを押し倒してみたくなったんでな」
「そんな事か」
オシュトルはハクの体に手を回すと、口元を緩めた。
「いつでも押し倒してくれても構わぬが」
そう言って背中をつけて寝転がり、片腕を広げて、いかにも「どうにでもしてください」と言わんばかりに目を閉じている。その姿に、一瞬見惚れた。そんな己に気付いたハクは咳払いを一つ。
「冗談を真に受けてくれるな、オシュトル」
「なんだ、冗談であったのか」
少し残念そうにそう言ったオシュトルは、ハクの顎を指で掴むと、そっと唇を重ねた。
オシュトルとの接吻も、今では当たり前の事のようになっている。我ながら、どうしてこうも素直に受け入れているのか不思議ではあるのだが、示し合わせたわけでもないのに、自然と唇を合わせていた。
――悪くないから困る。
ハクの中でわだかまっていたトゥスクル遠征と兄への思いが、すっかり解けてしまった。こんなことで機嫌が良くなってしまうとは、なんとも現金なものだ。
唇が離れると、こちらを不思議そうに見つめているオシュトルと目が合った。
「ん? どうかしたのか?」
「いや、其方が笑っているから。何か可笑しな事でもあったのかと思ってな」
ドキリとして、己の顔を触った。どこかニヤけていただろうか。「わ、笑ってなんかないぞ」
己に言い聞かせるかのように、ハクはそう言ってオシュトルを睨む。接吻ごときでニヤついているなどと、そんな事あるわけがない。
「そうか?」
「そうだっ」
「まぁ、其方がそう言うのなら、そういうことにしておこう」
オシュトルは、含むような笑みを向けると、ハクの背中をさすった。
その時、夕刻を知らせる鐘が、遠くで鳴り響いた。
「もうそんな時間かぁ」
ハクはオシュトルから体を起こすと、腕を上げて伸びをした。
名残惜しいが、そろそろ帰って皆に遠征の事を告げなければならない。一番の気掛かりはクオンだ。最悪、彼女はここへ置いていくことも考えなければならない。
「じゃあ、そろそろ自分は帰るから」
「そうか……くれぐれも、よろしく頼む」
「まぁ、できる限りの事はやるさ」
オシュトルの声にそう答えて、ハクは障子の引手に手を掛ける。その瞬間、オシュトルにその腕を掴まれた。
「っ……」
思わぬ強い力に、眉を顰めた。しかし、オシュトルを振り返ったハクは、痛いという言葉を飲み込んだ。
己を見つめる強い眼差しに釘付けになる。
「オシュ…トル」
「……死ぬなよ。ハク」
赤みがかった瞳に、己の顔が映っている。驚きと戸惑いが入り混じったような、微妙な顔をしていた。
(自分は死ぬだろうか?)
前線ではないが、戦場のすぐ側まで行く事になるのだ。それに、ムネチカ隊までの道程で敵が潜んで無いとも言えない。今までいくつもの危機を乗り越えてきたはずだが、こればかりは予測不可能だった。
「自分は、しぶといのだけが取り柄だからな」
冗談めかしてそう言ってみたものの、オシュトルの表情からして不発に終わったらしい。
「なんだヨ。笑うところだろ? そこは」
ハクは、トンとオシュトルの胸を叩いた。
「そうであったか、すまぬ」
「まぁ、別にいいけどな」
掴まれていた腕が自由になる。オシュトルは、仮面の奥から食い入るような眼差しでハクを見つめていた。お互いに言葉無くしばらくの間見つめ合った。そして、オシュトルが口を開く。
「名残惜しい」
「うん」
(自分もだ)
「其方を帰したくない」
「そっか」
(帰りたくない)
「……某は本気で言っているのだぞ」
「本気だとしても、お前はそんなことしないさ」
そんなことをすれば、トゥスクルへ遠征に行ったムネチカ達に物資が届かなくなる。身軽に動けるハク達だからこそできる仕事なのだ。それを提案したのはオシュトル自身ではないか。
「けど、ありがとな。オシュトル」
心配してくれて。
そう言うと、オシュトルは少し困ったように目を細めて、ハクを見下ろした。
「其方には敵わぬ」
軽い抱擁の後、ポンと背中を叩かれる。ハクは、改めてオシュトルを見つめると、「じゃあな」と片手を上げた。
障子戸が閉まるまで、オシュトルはじっとハクを見つめていた。
***
外へと続く扉を開けると、潮風が顔に吹き付けてきた。今どのあたりを進んでいるのだろうか。手で風を遮りながらハクは甲板へ出た。
強風により、少し波が荒れていた。この分だとノスリは船酔いで死にかけているかもしれない。
揺れはあるが、確実に船は前へと進んでいた。この船にも旧文明の技術が使われているのだろうか。
「あ……」
船の縁を掴みながら舳先へと向かうと、そこに、じっと前方の暗い海を見つめているクオンの後姿を見つけた。
向かう先は、彼女の故郷なのだ。そこへ、ヤマトの援軍として向かう。ゆっくり眠れるはずがない。
ハクの小さな声に気付いたのか、彼女が尻尾を揺らして振り返った。
「ハク……」
「眠れないのか? クオン」
「ううん。ちょっと考え事をしていただけかな。ハクは?」
「自分は、目が覚めちまったというか……」
見上げれば、白い月。まさか、オシュトルを思い出してとは言えない。
ハクは、クオンの隣に並ぶと、手すりに寄りかかった。
そんなハクの一連の動作をじっと見つめていたクオンが、不意に口を開いた。
「ねぇ……ハク」
「ん?」
「変な事聞いてもいいかな?」
「何だ? 変な事って」
首をかしげながらも、ハクはクオンを促した。彼女は少し躊躇いがちに言葉を紡ぐ。
「ハクは、オシュトルの事が好きなの?」
「へ……っ?」
唐突な質問に、ハクはポカンと口を開いたまま動けなくなった。
(何故、そんなことを。いや、まて。何故、クオンがそこに思い至ったんだ?)
口を開きかけては閉じる。ハクは、池の中の魚のように口をパクパクさせていた。
どう返答するべきか。何度か逡巡した後、ハクは観念したかのように重い口を開いた。
「オシュ…トルは、……そうだな、スキといえば、スキなんじゃないか?」
「何それ」
あからさまにぎこちなく返答したハクに、クオンは噴き出した。
「何で笑うんだヨ。クオンが聞いてきたからだなぁ……」
「ハクってば、目が泳いでるんだもの」
そう指摘されて、ハクは手すりに前のめりに項垂れた。己の保護者を名乗る彼女には、嘘偽りはしたくないという思いはあるのだが、いかんせんこればかりは気恥ずかしい。
「なんで、そんな事聞くんだ?」
船があげる飛沫を見つめながら、ハクはクオンに聞いた。彼女は軽く握った手を口元にあてながら、少し考えるような仕草をした。
「なんとなく、そんな気がしたから、かな」
そして、呟くように言った。
「オシュトルとハクって、友情より深いところで繋がっている気がするかな」
ちょっと、羨ましいかな。
最後の部分は、独り言のようだった。そんなクオンを、ハクは顔を上げて見つめた。彼女は、少し困ったように眉尻を下げて微笑んでいた。
「クオン。自分は……」
「ん」
「オシュトルの事が、好きだ」
今度ははっきりと、彼女にそう告げる。「自分でも、この感情の説明は出来ないけど。あいつと居ると落ち着くっていうか……なんというか」
言葉尻は、今にも消え入りそうだった。そして、己の鼓動がはっきりと聞こえるくらいにドキドキしている。そんなハクの言葉に、クオンは笑うでもなくじっと聞き入っていた。
「そうなんだ」
「だから……」
ハクは指の関節が白くなるほど、己の拳を握り締める。
「ありがとうな、クオン」
「え?」
思いもよらなかったハクからの言葉に、クオンは呆然とした。「……どういうことかな」
「自分の事、いつも気にかけてくれていたんだろ?」
「まぁ……私はハクの保護者だから」
クオンは慌てたように両手をブンブンと振った。「べっ、別にそれ以外の何でもないんだから」
「どうしたんだ? 顔が赤いぞ」
「ううんっ、何でもないかなっ」
そう言うと、何故かクオンがハクの腕を尻尾で締め上げた。
「イテーッ、何で腕を尻尾で締めるッ」
頭じゃないだけマシかと思ってしまった己が悲しい。ハクは腕をさすりながら口を開いた。
「それにしても、なんでそんな事を、今聞いたんだ?」
しかもこんな船の上で。契機なら、帝都でもあったはずだが。
「ハクは気付いてなかったの?」
「何が?」
「甲板に上がってきた時、ハクったら月を見て微笑んだんだもの」
「月を……?」
「うん。誰かを想って微笑んだのかなと思って」
確かに、月を見上げたのは覚えている。そもそも目が覚めたのだって、あの月のせいだった。
「月がオシュトルだと?」
「なんとなくね」
クオンはそう言うと、船の進んでいる先を見つめた。波の表面に歪んだ月の姿が揺れている。そして腕を上に伸ばして深呼吸すると、
「あー、なんかスッキリしちゃった」
そう言って笑った。
「は?」
「ずっと、何かモヤモヤしてたかな。ハクの今までの行動とか」
「は、はぁ」
(それはアレですか。夜中に帰ってきてたりとかした件でしょうか)
「でも安心した。ハクにもそうやって心を許せる誰かがいるんだってわかって」
「……」
皆に対して、心を許していない。そんな風に見られていたのだろうか。己が何者かわからない。そういう境遇になれば、自分自身でさえも疑わしい存在に思えてくるものだ。
心を許しているようで、どこかで一線を引いていたのかもしれない。
今は、違う。
全てではないが、己が何者かは思い出した。
そして、己と彼らが何故違うのかという事も。
この世界では、己が異端だ。大いなる父と呼ばれる旧人類の生き残りなのだから。
(けど、実感が薄いのは確かだな)
彼らと共に居た時間が長すぎたのか。眠っていた時間が長すぎたせいか。今は、この世界の住人だという思いが強い。
「自分は、クオンにだって心を許しているつもりだぞ」
「え?」
「本当に許していないのは、クオンの方じゃないのか?」
彼女は、常に何かを隠しているような気がしていた。故郷の事だって、家族の事だって一部のこと以外は濁したままだった。あえてそのことを深く聞くつもりはないが、クオンの方こそ、一線を引いているように思えたのだ。
「……そう、なのかな」
思い当たる節があるのか、クオンは遠くを見つめたまま、呟くように言った。
「でも、私は……」
彼女が何か言いかけたとき、勢い良く船室へと続く扉が開いた。
「く、クオン~~~」
「ノスリ?」
「酔い止めの薬が無くなった~~早く作ってく……」
急いで船の縁に駆け寄ったノスリは、嘔吐の声と共に、海に撒き餌を散らしている。
「どんだけ船に弱いんだ、あいつは」
「じゃあ、私は行くから」
話の途中だったが、仕方ない。それに、これ以上続けても答えが出るような話ではない気がした。
「ああ。悪かったな、邪魔して」
クオンは口元を緩めて微笑むと、ノスリの元へ駆け寄った。その姿を横目に、ハクは男衆が雑魚寝している船室へと戻る。
扉を開けようとした時、ふとあたりが暗くなった気がして、ハクは空を見上げた。
先ほどまで皓々と降り注いでいた月の光が、雲に遮られていた。それはほんのひと時の事だったが、何故かハクの心はざわついた。
(この先、何か嫌な事が起こらないといいけど)
もうすぐ、トゥスクルへ着く。そこで何が待っているのかは、ハクには想像もつかなかった。