「アンちゃん。遠乗りに行こうぜ」
ウコンは唐突に白楼閣にやってきてそう言った。
「は?」
仕事も無く、のんびりと一日を過ごそうと心に決めていたハクは、突然現れたウコンに眉を顰めた。
「遠乗り?」
「アンちゃん、ウマに乗れないだろ?」
「そうだな」
「これから、馬車とか乗る機会があるだろうから、乗れたほうがいいだろ?」
「まぁ、それはそうだが」
馬車と乗馬ではまた技術が違うのではないか。
そう思いかけたハクを遮るように、ウコンが口を開く。
「なら善は急げだ。なぁに、オシュトルの旦那には、ちゃんと明日まで仕事が無いようにお願いしといてやったからよ」
ということは、今日に引き続き、明日も溝さらいの仕事から解放されるらしい。それは、願っても無いことだった。
「そこまで言うならしょうがないなぁ」
ウコンの口車に乗せられ、ハクは初めての乗馬に向かったのだった。
「どうしてこうなった……」
そして、現在に至る。
帝都から北に位置する山の中腹で、ハクは音を上げた。ウコンによると山頂付近までの行きと帰りで、二日の道程だということだった。中々の距離である。
「もー、テッペンはまだかよ。遠いじゃねぇか」
ハクは水筒の水を飲みながら、弱音を吐いた。
「だらしが無いネェ、アンちゃんは」
隣に並んだウコンが、ニカリと笑う。「これくらいで音を上げてちゃぁ、ヤマト一周なんてできそうにないな」
「別に、自分はそんなことしたいとは思ってもいないが」
ただの乗馬訓練なので、それほど難しくないと踏んでいた。しかし、このウマというのは、存外乗り心地はよくなかった。二本足のせいかヘタをすると走っている最中に放り出されそうになる。ハクも例外なく、何度も背中から落ちそうになるのを、ウコンに助けてもらっていた。
「この辺で休憩にするか」
というウコンの言葉でようやく取れた休憩である。ゆるい坂の向こうにはまだ道が続いているようだった。山頂までの道程は長い。
「そもそも、なんでこんな所なんだよ、ウコン」
目の前の男は、本来の右近衛大将の姿ではなく、市井に紛れるための仮の姿をしている。そのため、今は【オシュトル】ではなく、【ウコン】と彼を呼んだ。二人きりなので、どちらでも構わない気がしたが、そこは雰囲気だ。
「そりゃぁ、ただの道を歩いてるだけじゃぁ、色々と障りがあるだろうからなァ」
「障りってなんだよ」
「咄嗟に、アンちゃんを抱き締めたくなったりした時とか」
そう言って、ウコンが腰に手を回してきた。ハクは驚いて手に持っていた水筒を取り落とした。
「ああっ、コラッ、勿体無い」
「無くなったら、俺のを分けてやるよ」
歯を見せて笑ったウコンは、そのままハクへと顔を寄せた。作り物の髭が頬をかすめ、唇がしっとりと重ねられる。ウコンとの接吻はこれが初めてではないし、体の関係も持ってしまっている訳だが、未だにこういう事には緊張してしまうハクである。
「び、ビックリするだろ」
「そういう、初心な所がアンちゃんのイイ所さ」
顔を離したウコンが、目を細めながらハクの頬を撫でた。
「さて、もう一頑張りしようぜ。目的地までもうすぐだ」
「本当にすぐなのか?」
この国の人が言うすぐは信用できない、とハクは思った。ギギリ退治の時だって、結構歩かされたのだ。今日は乗り物があるとはいえ、だんだん内腿に力が入らなくなってきている。
「んー、多分な」
少し考えてそう言ったウコンは、地面に落ちている水筒を拾い上げてハクへと手渡した。「ここでぼやいていたって、先には進めないんだ。さぁ行くぜ。アンちゃん」
「はいはい」
受け取った水筒を腰に戻して、ハクは繋がれているウマへと向かった。
だんだんと、手の先が冷たくなってくる。
「なぁ、ウコン。何か寒くないか?」
ハクは指先を揉みながら、先を行くウコンに声を掛けた。
山頂に向かうにつれて、吐く息が見えるようになってきていた。確実に気温は下がっている。
「そうか?」
それに対し、ウコンは平然とした顔で振り返った。「これくらいで寒いって言ってちゃ、頂上まで持たないぜ」
ということは、山の上はもっと寒いということか。
「すごく、今山を下りたい気分だ」
「今から帰ったら途中で日が落ちちまうよ。山賊に襲われても知らないぜ」
山賊がいるなら、来る途中に襲われているだろう。
と思ったことは口にせず、ハクは黙々とウコンの後ろをついて行く。少しずつ日が落ちてきているのか、先ほどよりもあたりは暗くなりつつあった。
ハクは、手綱を握りながら、ウマの首元に手を突っ込んだ。ウォプタルというこのウマは気候によっては羽毛のない種類もいるということだが、ヤマトは寒い地区が多いためか、この鳥のような羽毛が生えた種類が主のようだ。
今はこの温かさが何よりも愛おしい。
「なぁ、まだかよ~」
「何、もうすぐだ」
そう言って暫く進んだウコンは、ようやくウマの足を止めた。「ほら。着いたぜ」
ウマをウコンの隣まで進めて止めたハクは、その先に視線を向けた。ようやく坂が終わり、なだらかな稜線がその先に続いている。
「やっと着いた~」
さっさとウマから下りたハクは、ごろりと地面に転がった。短い雑草がチクチクするが、そんなのには構ってはいられない。とにかく目的地に着いたという達成感しか今のハクにはなかった。
稜線の先にはいくつもの小さな山が連なっているのが見えた。
「アンちゃんこっちだ」
ウマを適当な所に繋いで、ウコンが手招きをしている。「後ろを振り返ってみな」
ハクは言われるままに振り返ると、視界の先に帝都が小さく見下ろすように見えた。
「これは……」
あんなに大きかった帝都の屋敷のひとつひとつが、米粒のように小さく見える。
「夜になると、花街あたりの光が綺麗に見えるんだぜ」
いつの間にか、ウコンの腕が肩を掴んでいる。ハクは、意識しないように目を逸らした。
「これを、自分に見せたかったのか? ウコン」
「それもある。だが、目的は他にもあったんだけどな」
ハクに片目を瞑って見せたウコンは、ウマに背負わせている荷物を指差した。
「あの中に、何が入ってると思う?」
「え? ……野宿の道具とかだろ?」
「その通りっ」
ウコンはそう言うと、ハクを両腕で抱き締めた。
「ちょっ、苦しいウコンッ」
「今夜はアンちゃんと二人きりってワケだ。シッポリと行こうじゃないか」
「そっ、そういう……」
薄々と気づいてはいたが、はやりそういう目的での遠出だったのかと、今更ながらに思い知らされる。ウコンの腕の中で、ハクは顔を赤くした。
「嫌か?」
「嫌とか、そう言うんじゃないけど……」
ウコンの腕の中でモゴモゴと言葉を濁したハクは、恐る恐る彼を見上げた。ウコンがどんな顔をしているのか、不安だった。
しかし、ウコンは口元に笑みを浮かべたまま、こちらの返事を待っているようだった。
もし、ここで嫌だと言ったら、この男は潔く引き下がるかもしれない。ハクはそう思った。
外見はウコンだが、今、己を見つめている瞳の穏やかさはオシュトルのそれだった。
「い、いいけど。寒いのは嫌だからな」
ハクはウコンからぷいと視線を逸らすと、口を尖らせてそう言った。
「善処しましょう。ハク殿」
大げさに肩を竦めたウコンは、ハクの唇に口付けを落とした。
ひとまず今夜の寝床を作らねばならぬと、ウマに乗せてきた荷物を降ろし、天幕を設営した。大人二人が火を囲んで眠るには、心もとない広さだった。
天幕の空気口を確認してから火を熾す。持ってきていた握り飯を食べる頃には、外はすっかり陽が落ちていた。
「なぁ、お前は帝都を二日も不在にしていて大丈夫なのか?」
ハクは、気がかりになっていたことを聞いた。仮にも右近衛大将なのだ、そう簡単に帝の住まう帝都を離れてもいいものだろうか。
「なぁに、都を守っているのはオシュトルだけじゃない。左近衛大将も、他の将もいるから心配はいらんよ。現に、クジュウリの姫さんを送り届ける任を受けた時だって、オシュトルは帝都に居なかった訳だしな」
「そういえば、そうだったな」
あの時は、ウコンとオシュトルが同一人物だと知らなかったので、ハクの中ではすっかり記憶の彼方に追いやられてしまっていた。
火で温めた酒を口に運びながら、ウコンは言う。
「それに、この二日は今まで務めてきた分の休暇だ。誰にも文句は言わせねェさ」
「それって……」
この休みを取るために、ずっと働き通しだったということだろうか。
言葉を失くしたハクを、興味深そうにウコンが覗き込む。
「惚れ直したかい?」
「だっ、誰もそんな事思ってないからッ」
熱い顔を隠すように、酒を煽った。冷えた体を温めるかのように、酒が全身に染み渡る。
「そもそも、お前は元々働きすぎなんだろ? オシュトルとして政務に携わって、ウコンとして色んな事に首を突っ込んでる」
「まぁ、それは俺が好きでやってるようなモンだからな」
「いーや、お前は働きすぎっ。お前に比べたら自分なんて働いてないも同然だからな」
来る日も来る日も溝さらいの日々である。ハクは己の言動で、少し落ち込んだ。
「そんな事ないと思うがねぇ」
顎をさすりながら、ウコンが言う。
「アンちゃんは、隠密衆の良い束ね役になってるさ。それに仕事の大小なんて関係ないだろ? 溝さらいだって立派な人の役に立つ仕事さ」
「……そっか」
そこまで言われては、悪い気はしない。
「なァ。陽も落ちたし、外に出ねぇか?」
「嫌だよ。寒いだろ」
ハクはブンブンと首を振る。火の前に居ないと、凍えそうだった。
「そう言うなって。夜の景色も絶景なんだゼ」
ウコンはそう言って、天幕の入り口を開いた。夕方よりも強い冷気が肌を刺す。思わず両肩を抱いた。
「寒いって!」
「ほら、見てみろよ」
「寒いの嫌だって言っただろ!?」
「わかった。こうすれば寒くないだろ」
ウコンはそう言って、己の襟巻きをハクの首に巻きつけた。そして、毛布を一枚荷物から取り出すと、己の肩にかけ、そのままハクを背後から抱きこんだ。
「見ろよ、帝都の光が星みたいだ」
言われるままに帝都に目を向けると、ポツポツと明かりが夜の闇に点在している。それは、夜空に浮かぶ星のように、キラキラと輝いて見えた。
「ホントだ……」
ハクは、背中にウコンの体温を感じながら呟いた。
中でも、聖廟付近は一際明るい光によって照らし出されている。その部分だけが、何故か異質なもののように感じられるのは、気のせいだろうか。
暫くの間二人は言葉もなく、静寂の中、町の明かりを見下ろしていた。
「っくしゅん」
その静寂は、ハクのくしゃみによって破られた。さすがに足元から冷えが上ってきたらしい。
「そういや、こんな事前にもあったな」
ウコンは口の端を上げながら、天幕の入り口を開く。「お前さんが賊に攫われた時だったか」
「そのコトは、もう思い出したくも無い」
耳を塞ぎつつ、ハクは入り口をくぐった。
ウコンが言っているのは、以前オシュトルからの依頼で追っていた案件で、運悪く賊に捕らわれた時の事である。
助けに来てくれたウコンと、捕らわれていた小屋で初めて肌を合わせたのだった。今日はウコンとしての彼とは、その時以来の逢瀬だった。
「あの時も、寒がりのアンちゃんはくしゃみをしてた」
「そんな細かいこと覚えて無くてもいいしッ」
あの時のことを思い出すと、ハクは今でも顔から火が出そうだった。
「忘れるわけ無いじゃないか。アレが、ハクとの初めての交わりだったんだからな」
「ま、まじわ……」
「ほら、こっちに来て座りなよ」
入り口で棒立ちになっていたハクを、ウコンが手招きする。言われるがままにウコンの隣に座ると、盃を手渡された。そこへ酒を注ぎながら、ウコンが口を開く。
「オシュトルには右近衛大将というしがらみがあるが、ウコンにはそれがない。だから今日はウコンとして、ここに来たのさ」
「ウコン……」
「アンちゃんもその方が、遠慮なく呑めるだろ?」
ウコンに促されて、酒を呷る。しかし、今のハクには酒の味が良くわからなかった。もう酔ってしまったのだろうか。心臓の鼓動が早い。
「呑む、だけじゃ無いんだろ?」
酒を呑んだばかりだというのに、やけに喉がカラカラだった。ウコンは、ハクからの見上げるような視線を受けて、困ったように頭を掻いた。
「そんな目で見つめられると、歯止めが効かなくなりそうだ」
ポツリと呟く。そして、隣に座るハクの足に手を置いた。
「朝、アンちゃんを誘った時、断られたらどうしようかと思ってたんだぜ」
「ウコン……?」
「ありがとうな。俺のワガママを聞いてくれて」
ウコンから礼を言われると、なんだかくすぐったい。ハクは照れくさくなって、顔を逸らした。
「自分が、断ったらどうするつもりだったんだよ」
「そりゃぁ、あの手この手を尽くして、意地でも連れ出しただろうなァ」
「結局同じ事になるんじゃないか」
見直した自分がバカだった。反論しようと顔を上げたハクは、意外にも近くにあったウコンの顔に驚いた。あっと口に出すまもなく、唇を塞がれる。
「んん……っ」
「そうさ。何が何でも、アンちゃんとここへ来たかった……それくらい、俺も切羽詰ってるってことサ」
そのままハクは、地面に押し倒される。動物の毛で織られた敷物のお陰で、背中は痛くない。手に持っていた盃が、弧を描いて手の先へと転がっていった。
「ウ、コ……」
「ここだったら、アンちゃんも思う存分声出せるだろ?」
なんせ、この付近には二人だけなのだから。
そう言外に臭わせるウコンの言葉に、ハクは首を振った。今でだって恥ずかしいのに、これ以上自分の声を聴いたら死んでしまいそうだ。
「ウコン……」
「ハク。お前さんの声を聞かせてくれ」
ハクに巻いていた襟巻きをスルリと外しながら、ウコンはハクの耳元で囁いた。
***
ハクは、毛布に包まりながら、目の前で燻っている焚き火を見つめていた。
腰の辺りにウコンの腕が絡まっている。散々ハクと睦みあった後、彼はハクを抱いたまま眠ってしまっていた。日頃の疲れが溜まっていたのだろうか。かろうじて肩に引っかかっている羽織を掛け直してやりながら、ハクはその姿を見下ろした。
乱れた髪の隙間から、獣のような耳が覗いている。耳も尻尾もハクにはないものだった。その耳の付け根を指先でくすぐると、ウコンは眠ったまま、うなって顔を振った。
こんな無防備なウコンを見るのは初めてだった。
思わず笑いが声に出そうになって、ハクは口元を押さえた。幸いな事に、ウコンが目覚める気配はなかった。
―ずっと、こんな穏やかな日が続けばいいのにな。
それは、ハクの願いだった。
しかし、戦いが常に身近にあるこの國の中では、そんな平和な日々も一時に過ぎないのだろう。
己が何者かも分からないハクを、掛け値なしに愛してくれるこの男は、武人の中でも一、二を争う腕前である事は分かっている。だから、もし戦になったとしても負ける事はないという確信はある。
だが、そんな確信など役に立たないというのも、戦なのではないかとハクは思った。
「ウコン……オシュトル」
ハクは彼の二つの名を呼んだ。どちらも一人の男を指すものだが、どちらの名も、ハクにとっては大切なものだ。
ハクの呼びかけに応えるかのように、ウコンの尻尾がパタリと揺れた。
「自分も、嬉しかったよ」
此処へ呼んでくれて。
僅かだとしても、彼が作ってくれた時間を共に過ごせた事に感謝しなければ。
夜明けにはまだ早い。
大きな欠伸を一つしたハクは、火が消えていないことを確認すると、ウコンを起こさないように体を移動させた。向かい合わせになるように寄り添って、毛布を掛け直す。
「お休み、ウコン」
小さく呟くと、ハクは目を閉じる。温かなウコンの腕がそれに応えるかのように、無意識にハクの背を撫でた。