ある日の昼下がり。いつもならば、側溝の溝さらいやその他諸々の雑用をさせられているのだが、珍しく暇を貰っていたハクは、詰所でのんびりとルルティエの茶などを啜っていた。
(平和だ)
ハクは、その喜びを噛み締める。
というのも、ここ最近ドタバタ続きで休む暇がなかったというのもある。ヤマト國の皇女アンジュがこの詰所に連日のように押しかけてきていたのだ。そもそも、一国の皇女がこんな一介の隠密の棲家へと軽々しく来るものではないのだが、幼いゆえの好奇心は並大抵の事ではへこたれないようであった。ただ、一つだけ礼を言うなら、面白いものが見られたということだろうか。
思わず、口元が緩む。そんなハクを見て、ルルティエが首を傾げた。
「ハクさま。何か良い事でもあったのですか?」
「へ?」
「なんだか、嬉しそうな顔をしていらっしゃいます」
彼女の毛足の長い耳が揺れる。ハクは、己の顔に触れた。
「変な顔だったか?」
「いえっ、そんなことは、ないのですが」
手に持っていた盆で口元を隠しながら、ルルティエがおずおずと口を開く。
「誰かの事を、思い出されていた……のかな、と」
「ああ……ちょっとオシュトルの事をな」
「オシュ……ッ」
「どうした? ルルティエ」
「あ、い、いえッ……なんでも」
明らかに顔を赤くして、息もなんだか荒いように感じる。彼女は相変わらず盆に顔を隠しながらも、チラチラとハクを見た。
「オシュトルさまが、どうかされたのですか?」
「ルルティエも覚えてるだろ? この間、アンジュが勝手にここに上がりこんでたもんで、ネコネが手を回してウコンを呼び出してた時の事」
「ああ……わたしの大事な書冊を読まれていた時の事ですか」
何故か、遠い目をするルルティエ。
ネコネに呼び出されたウコンが、勢い良く詰所の戸を開けた時の驚きの声は、今も忘れられない。
「あの時アイツの驚いた顔、面白かったなぁと思ってな」
さすがに、オシュトルの姿に戻ったあとは、平静を装ってはいたが。今まで見た中で、一番驚いた顔だったかもしれない。
「はぁ……」
「どうしたんだ、ルルティエ。ため息ばっかりついてるぞ」
「あッ、いえ……なんでもありませんっ」
ルルティエが慌てて顔を振る。
「お菓子のおかわりいかがですか? ハクさま」
「うん。じゃぁ、貰えるか」
「はいっ」
取ってまいります。と言って、ルルティエが部屋を出て行った。ハクが教えた菓子の作り方を覚えたルルティエは、いつも美味い菓子を出してくれる。ありがたい事だ。
一人きりになった詰所で、ハクはふと顔を上げた。
「そういや、最近オシュトルに会って無いな」
元々、オシュトルとしての彼には、仕事の時以外は殆ど会うことはないのだが、仮にも『両思い』になったのだから、もう少し会う機会があってもいいというものだ。
(接吻だってしたのに……)
「ぐぉぉ~」
その時の事を思い出し、ハクは床をゴロゴロと転った。
「今思えば、自分はとんでもない事をした気がするぞ……」
オシュトルとしてはまだ何もしていないが、ウコンとしては接吻と、その先の行為まで経験済みだった。しかし、彼自身を受け入れる行為は未遂に終わっている。恋愛経験の浅いハクには、最後まで致す心の準備がまだ出来てはいない。
「だけど、いずれは……」
両手をバンザイした状態のまま、床にうつ伏せになる。熱くなった顔に、床の冷たさが気持ちいい。
「最後までしちゃうってことか」
目を閉じると、ウコンが己に触れた時の事を思い出す。先程まで刀を握っていた彼の手が、ハクの繊細な部分に触れた時の事を。
その、指の力強さを。
「何してるですか」
「ひゃうっ」
頭上からの突然の声に、ハクは驚きのあまり、変な声を出してしまった。聞きなれた、人を蔑むような声音だった。ハクは身を強張らせながら、恐る恐る伏せていた顔を上げる。
「ね、ネコネさん」
想い人の妹が、今にも呪い殺しそうな瞳でハクを見つめている。ハクは素早く正座すると、近くにあった座布団をネコネの前に差し出した。
「どうしたんだ? 今日は自分は休みなんだ」
けして、怠けていたわけではないぞ。
そんな、いい訳のように言ったハクのことを珍しく素通りしたネコネは、室内をぐるりと見回した。
「な、何かお探しで?」
「姉さまはいらっしゃらないのですか?」
「ん? クオンか? 今日は見てないが」
「そうですか……」
ハクがそう言うと、ネコネは残念そうに尻尾を垂らした。
「何かクオンに用事でもあるのか?」
ネコネはよっぽどクオンと気が合うのか、まるで本物の姉妹のようにクオンについて回っていた。クオンは沢山の姉に囲まれて育ったらしく、他人とはいえ、妹のように彼女に懐くネコネを可愛がっている。
そんな微笑ましいやりとりに反して、ハクには冷たいネコネである。この待遇の差は何なのだろうか。
「そうではないですが、兄さまのお使いで帰る途中に通りかかったので、姉さまに会いに寄っただけなのです」
「へいへい、そーですか」
と、適当に話を流しかけて、ハクは顔を上げた。
「そういや、オシュトルは元気にしてるか?」
ハクの何気ない一言に、ネコネは尻尾をピンと緊張させる。そして、彼女の小さな手が長い袖の内側で握り締められるのを見た。
「な、ナンダヨ」
ハクは、そのただならぬ気配に膝で後ずさろうとした。ネコネを怒らせると碌なことが無い。主にオシュトルのことに関しては。
「……何なのです。兄さまの事が、あなたに何の関係があるのですか」
押さえられた声色だったが、明らかにネコネは不機嫌だった。しかし、何故オシュトルの体調を聞いただけで怒られるのか、ハクにはわからなかった。
「自分は、ただアイツが最近忙しそうで会って無いから、どうしてるかなぁと思って聞いただけじゃないか」
ハクは負けじと、目の前に立っているネコネを正座したまま見上げた。そんなハクを、ネコネはじっと見つめ返す。嫌な静けさが二人の間に流れた。ハクは心の中で、ルルティエが早く戻って来れないかと祈った。しかし、そんな都合の良い事は滅多に起こらないのが現実である。
やがて、ネコネが諦めたかのように、ため息をついた。
「そんなに暇なら、今から会いに行けばいいじゃないですか」
「は?」
「兄さまは忙しいのです。暇しているハクさんが直接会って確かめればいい話じゃないですか」
「それはそうなんだろうけどな」
思いも寄らなかったネコネの言葉に、ハクは戸惑いを隠せない。
「……いいのか? オシュトルに会いに行っても」
いつもネコネなら、全力で阻止してくると思っていた。しかし、今日の彼女は口元を尖らせながら、渋々といった様子で、
「わたしも今から兄さまに報告に行く所なのです。そのついでに話をするくらいの時間はあるのです」
と言った。
「そうか。じゃあ行こうか」
いつネコネの機嫌が変わるかわからない。ハクは正座を崩して立ち上がろうとした。
「……っと」
少し足が痺れている。ハクは、腰を浮かせた状態でその痺れが去るのを待とうとした。その足を、ネコネが手に持っている杖でつついた。
「あっ、ヤメテッ、ネコネさんっ」
「行くなら早くするのです。置いていくですよ」
ツンツン。
「うぐぐ……」
痺れた足を引きずりながら戸口を開けると、いつからそこに居たのか、ルルティエが廊下で立ち尽くしていた。
「あ、ハクさま。お待たせ……」
「悪いルルティエ。折角の菓子だが、今からオシュトルの所に出かける事になった」
「あ、オシュトルさまの……?」
その言葉にビクンと反応したルルティエは、盆に載せた『しゅう』を皿に敷いていた懐紙と共に一まとめにすると、かわいらしい花柄の小さな巾着に包んでくれた。
「あの、それではオシュトルさまと一緒にお食べください」
「そっか。ありがとうな、ルルティエ」
ルルティエから、ありがたく菓子を受け取った。折角会いに行くのに手土産もないのは味気ないので丁度良かった。
彼女は再び盆で口元を隠すと、
「いえ。……ハクさま、がんばってください」
小さな声でそう言った。
(何を頑張ればいいのだろうか)
よく分からない応援の言葉をいただきつつ、ハクはネコネと共に白楼閣を出た。
オシュトル邸に着いた二人は、門番に挨拶をし、ネコネが先導するように執務室へと向かった。彼女はハクに廊下で待っているように言い置いて、一人執務室へと入っていった。
まるで、廊下に立たされたイタズラ坊主のように、所在なげにハクは庭先を見つめていた。
手入れはされているが、殺風景な庭だ。この庭に季節によって色とりどりに咲く花の樹を植えたら、いつでも花見ができるだろうに。
「……」
そんな事を考えながらも、意識は背中の執務室の方へ向いていた。実は、少し緊張している。この中にオシュトルがいるのだ。
どんな顔をして、挨拶すればいいのだろう。
(その節はどうも……とかか?)
なんだか、よそよそしい。
むしろ、ネコネがいるのだからそんな挨拶は不要な気がしてきた。余計な事を喋れば、藪から蛇を出しかねない。
しかし、なかなかハクが呼ばれる気配が無い。待ちきれず、ハクは障子越しにネコネに声を掛けた。
「おーい、ネコネ。いつまで待たせるんだよー」
暫しの間の後、障子が勢い良く開いた。中から出てきたネコネが、何故かハクの足を踏んづけて、
「どうぞ、ごゆっくり!」
廊下を歩いていった。
今日は、足に災難が降りかかる相でも出ているのだろうか。
「イテテ」
足の甲をさすりながら、開いたままの障子の向こうを見た。この位置からでは、彼の姿は見えなかった。
(……行くか)
ハクは意を決して、部屋へと足を踏み込んだ。
部屋の中央には、オシュトルの文机が置かれている。そこに、彼は居た。ハクは、戸口に立ったまま彼の姿を見つめる事しか出来なかった。
何か言わなくては。
そう思うばかりで、何も気の利いた言葉が浮かんでこなかった。考える事をやめたハクは、一呼吸ついて口を開く。
「オシュトル。元気そうだな」
当たり障りの無い挨拶。オシュトルが、仮面の奥で僅かに目を細めた気がした。
「ああ。貴公も壮健そうでなによりだ、ハク殿」
いつものやり取り。それに安堵したハクは、戸を閉めるために後ろを向いた。障子の擦れる音と同時に、床を踏む音が耳に聞こえてきた。その足音は己の背後から忍び寄ってくる。
カタンと戸が合わさったのと、背後から手が伸ばされるのは同時だった。
「あ……」
心の準備をする間もなく、ハクはすっぽりと背中からオシュトルの両腕に包まれる。驚いたハクは、手に持っていた菓子の包みを放り出してしまっていた。
バクバクと、心臓が激しく脈打つ。
「お、オシュトル……? どうしたんだ、いきなり」
「いや、何も」
何も?
オシュトルの言葉に、ハクは困惑した。この場に居るのはウコンではなく、オシュトルだ。ウコンならともかく、理性の塊のようなオシュトルが、衝動的に己を抱きしめてくるとは夢にも思わなかった。
背中の体温をまざまざと感じる。ハクは己の手持ち無沙汰な両手をじっと見つめた。この場合、この手をオシュトルに回せばいいのだろうか。だが、後ろからの抱擁では彼を抱きしめる事すらできない。
「……そろそろ離してくれないか」
「ああ、すまぬ」
オシュトルは、ハクの言葉に存外あっさりと腕を解いた。恐る恐る振り返ると、オシュトルに正面から見つめられている。白い仮面の奥から覗く赤みがかった瞳を、ハクは見つめ返した。
オシュトルが口を開く。
「ハク殿。ここで、もう一度其方に告白しても良いだろうか」
もう一度?
「ウコンではなく、オシュトルとして」
両思いになったあの日、告白したのはウコンだった。そして、今日はオシュトルとして、ハクに告白するとのことらしい。ハクは、なんとなく面映くなって口を尖らせる。そして、
「……別に、いいケド」
そう言うのが精一杯だった。
「そうか」
ハクの言葉に口元を緩めたオシュトルは、ハクの頬を流れる黒髪を一房掴むと、その髪先に口付けをした。
「いつの間にか、其方は某にとってはなくてはならない存在になっていた。それは、隠密という事だけではない。我が半身として、いつも側にいて欲しいという存在だ」
「……」
「ウコンである時も、某である時も、其方を想う心は変わらない。こんな某を、側で支えてくれるだろうか?」
願いを込めるように、ハクの髪へと言葉を捧げたオシュトルが、顔を上げた。己からの言葉を待っているかのように、じっとハクを見つめている。
――自分もそう思ってる。
――支えられてんのは、自分の方だ。
色々な思いが、胸中を駆け巡る。ハクは間近に迫るオシュトルの顔を見つめた。茶化すでもなく、からかうでもなく、真剣な表情で、じっと言葉を待っている。
逡巡した挙句、
「うん」
と、ひとこと言うのが精一杯だった。オシュトルのように、照れくさい言葉を並べ立てるようなものは、己らしくない。
「お前の、オシュトルとしての気持ち聞けてよかったよ。なんか、オシュトルとは距離があったような気がしてたからな」
「そうか。某は、どちらであっても変わらぬつもりなのだが」
「いや、そもそも性格違ってるぞ。オシュトルとウコンじゃ」
自覚が無いのだろうか。だとすれば末恐ろしい。ハクの疑うような視線に、オシュトルは口の端を緩めた。
「ハク殿」
「ん?」
「接吻、しても良いだろうか」
その言葉にドキリとしつつも、ハクは頷いた。彼との接吻は初めては無かった。だが、オシュトルとウコンを分けるとするならば、彼との接吻は初めてという事になるのだろう。
(だんだん、ややこしくなってきた)
そもそも、オシュトルとウコンを別人として考えているのが間違いなのだ。分かってはいるのだが、どうしても、目の前の男とウコンを重ねると変な感じがする。
そんな事を考えつつも、オシュトルの顔が近づいてくると同時に目を閉じた。オシュトルは仮面の角が当たらないように、少し角度を変えて唇を合わせてきたようだった。壊れ物を扱うかのように優しく触れた唇は、弾力を確かめるように、ハクの下唇を食んで離れていった。
目を開くと、オシュトルが口元に笑みを浮かべ、穏やかな目でこちらを見ていた。その笑みに、緊張していた自分の体から力が抜けていくのを感じた。
「なんか、変な感じだな」
ポツリと呟いたハクの言葉に、オシュトルは頷いた。
「ああ。そうだな」
「……」
「……」
話が続かない。
いつもどんな話をしていただろうか。全く思い出せなかった。そもそもオシュトルとは、のほほんと世間話をするような仲ではなかったのだ。ウコンのような気軽さで、この男が下世話な話に乗ってくるわけも無いだろう。
じっと見つめられる気恥ずかしさから、ハクは視線を外した。その視線の先に、床に落ちたままの菓子包みを見つける。すっかり忘れていた。
「そうだ。ルルティエから菓子をもらってきたんだ、食べないか?」
「ルルティエ様からの菓子か。では茶を淹れよう」
そう言って背中を向けたオシュトルに胸を撫で下ろす。とりあえずこれで、彼と話をする切っ掛けが作り出せたような気がした。気を利かせてお茶菓子を持たせてくれたルルティエには感謝しなければならないだろう。告白され、両思いになったからと言って、急にベタベタとすることなど、己には出来る芸当ではなかった。
(だって、恥ずかしいし)
オシュトルだって、そう思っているに違いない。
当のオシュトルは、文机の横にある小さな火鉢に火を入れ、茶の用意をし始めている。ハクはいつも座っている場所よりも近く――オシュトルの文机のすぐ横――に円座を持ってきて座った。片付けられた文机の上に、持ってきた菓子の包みを広げる。先ほど取り落としたせいで少し形がいびつになってしまったが、食べられない事は無い。
「ハク」
「ひゃいっ」
急に呼び捨てにされて、変な声が出た。口に手をあててオシュトルを見ると、彼は先ほどと同じような笑みを浮かべている。
「な、ナンダヨ」
「もっと、こちらに来ても構わないぞ」
「こちらにと言われても、もう机ギリギリまで寄ってるって」
この場所だって、ずっといつもより近い。
「此処がいい」
そう言って、彼がぽんと手を置いた場所は、
「いやいやいや、そこお前の膝の上だろうがっ」
ネコネに同じ事をするなら「仲のいい兄妹でうらやましいわ、ふふふ」で済むところだが、男同士でその場所はいささか無理があるというものだ。
「何か不都合があるのか?」
オシュトルが首を傾げる。冗談かと思ったが、どうやら本気らしい。
「ありまくりでしょうが! 自分がお前の膝の上に乗っているところを誰かに見られたらどうするんだ」
帝都にいろんな意味で火種を起こしかねない。そして、ネコネとの間にも。
こちらの言わんとしている事を悟ったのか、オシュトルは大丈夫だと言った。
「ネコネは、某がハクの事を好いているということを承知している」
「絶対嘘だ」
万が一それが本当なら、今此処に己が存在している事すら信じられなかった。
「ハク」
再びぽんぽんと己の膝を叩くオシュトル。もしかして、腹の奥底ではこの状況を面白がっているのではないだろうか。ハクはしぶしぶと立ち上がると、オシュトルの膝の上に腰を下ろした。
「……あったかいな」
「そうであろう」
背中から尻まで、オシュトル全体で包み込まれているような感覚だ。
ハクの両腕を包み込むように、オシュトルが腕を腹の前に回して指を組む。そして、顔をハクの耳元へ近づけてきた。
「このまま、貴公をこの腕の中に抱いていたいくらいだ」
耳元で囁かれた言葉に、恥ずかしさに鳥肌が立った。
「ひゃっ。そ、そんな冗談、耳元で囁くなっ。恥ずかしいだろっ」
ハクは耳を手で覆いながら、オシュトルを振り返った。揶揄われているのかと思っていたが、ハクの思いに反して、オシュトルは笑っているようには見えなかった。仮面の奥の瞳に己の驚いた顔が映っている。
「某は真剣に言っているのだがな」
僅かに口元を緩めたオシュトルは、横でシュウシュウと音を立て始めた茶釜から湯を急須へと注ぎ、文机に置いた。
「……」
その一連の馴れた手つきを見ていたハクは、ふと疑問が沸いた。
「いつも、自分で茶を淹れているのか?」
「そういうわけではない。ネコネがいるときなどは、彼女が運んでくれるしな。ただ、この部屋に篭りっきりになる時などは、自分で用意する事もある」
「偉いな」
「茶を淹れるくらいで、褒められるとは思いもよらなかった」
実際ハクは、いつもルルティエ達に茶を用意してもらっていたので、自分で用意するということを殆どしたことがなかった。そう考えると、何故か己よりもオシュトルの方が庶民的なのではないかという気さえしてくる。
「なんか、すまん」
「何故謝られているのか、わからないが」
「今日は、自分が茶を淹れるよ」
と言っても、既に準備は整えられているので、茶を湯呑みに注ぐのみである。
急須の中で茶葉が十分に開いたのを確認したハクは、並べられた二つの湯呑みに茶を注ごうとした。加減が分からず勢いよく傾けたせいで、急須の蓋の方からも茶が零れる。
熱い茶がボタボタと文机に広がった。
「あちゃっ」
「ハク!」
文机の端から垂れた茶が、ハクの太ももの上にもかかる。思わず飛び上がったハクの手から急須を取り上げると、オシュトルは素早くハクを文机の前から移動させ、下穿きの紐を解き始めた。
「ちょっ! オシュトルっ」
「早く脱がぬと、火傷になるぞ」
抵抗するハクの手をもろともせず、オシュトルはハクの下穿きを剥ぎ取った。丁度、茶がかかった右足の太もも部分が赤くなっていた。それを見て、オシュトルは部屋を出て行った。
「は~……なんか、ヘコむ」
机の上の惨状を見て、ハクはひとりごちた。
茶も満足に注げないとなると、いよいよネコネに蔑まれかねない。懐から手ぬぐいを取り出したハクは、床と机に零れた茶を拭いた。いつも怠けていた代償だろうか。菓子作りも、ルルティエに指示するだけで己では手出ししなかった。
一人反省会をしていると、オシュトルが戻ってきて冷やりとした物をハクの太ももに乗せた。
「つめてっ」
「我慢しろ。冷やした方が治りが早い」
冷水に浸した手ぬぐいだった。
水を張った桶を手に、オシュトルはじっとこちらを見つめているようだった。ハクは、零れた茶を拭いた手ぬぐいを握り締めて俯いているため、彼がどんな表情をしているのかはわからなかった。
「――泣いているのか?」
やがて、オシュトルが静かに問うた。
ハクは俯いたまま首を振る。泣いてはいない。ただ、自己嫌悪に陥っていただけだ。オシュトルはハクの隣に膝をつくと、太ももに乗せた手ぬぐいの上に手を置いた。
「人には、向き不向きがある。貴公は頭を使う事に向いている。そう落ち込むな」
「……茶を淹れるのに、向き不向きなんてあるのかよ」
そんな話聞いた事が無い。ハクは口を尖らせてオシュトルを見上げた。「でも、お前は――」
何でも出来るじゃないか。
言いかけた言葉が、唇で塞がれる。逃れようとしたが、太ももを押さえられていたので後ずさることができない。せめてもと手をばたつかせると、唇が離れた拍子にオシュトルの顔に手が当たった。
カランと、彼の顔から仮面が弾き飛ばされる。オシュトルの手が、ハクの両手首を床に押さえつけた。
「あ……」
「落ち着けよ。ハク」
仮面が外れたオシュトルは、少し砕けた口調でそう言った。二股に分かれた眉。赤みがかった瞳が、真っ直ぐにハクを見下ろしていた。こうして見ると、ホクロの位置といい、ネコネとオシュトルは紛れもない兄妹だと認識させられる。
「俺が、何でもできるなんて、思ってないだろうな」
「……」
髪型はオシュトルのままだが、口調はウコンだった。
「それは違うぜ。出来ない事なんて山ほどあらぁな。それを上手く補ってくれるのが、ネコネやアンちゃん達だ」
「自分たち?」
「まぁ、茶くらいは自分で淹れるが、それは馴れてるからだ。ハクだって、馴れれば簡単に出来る事さ」
そう言うと、オシュトルはいたずらっぽく片目を瞑ると、「何なら、俺の茶はアンちゃんが毎日淹れてくれるってのでもいいけどよ」
「そんなことしたら、ネコネに何言われるかわからんだろう」
「なぁに、白楼閣に行った時だけでもかまわねェよ」
そう言ってオシュトルはハクの腕を解くと、
「あとは、二人っきりの時とか、な」
と言って、指を唇の前に立てる。
ハクは、己の顔が熱くなるのを感じた。
「……ばか」
そう言い返すのが精一杯だった。
そんなハクに笑いかけたオシュトルは、軽く触れるだけの口付けを落とす。
「ヤバイ。なんだか変な気分になってきちまった」
口元に手を当てながらハクの体から手を離すと、飛ばされた仮面を取りに立ち上がった。ハクはというと、仰向けになったままその場から動けずにいた。
(なんかズルい)
ウコンにも、オシュトルにも翻弄されている己が居る。それが悔しいとかそういうわけではないのだが、なんだか男として、負けているような気がしてならなかった。
「よっこいしょ」
ようやく体を起こしたハクは、太ももに当てられた濡れた手ぬぐいを外した。赤みは先ほどよりも引いているようだった。
「具合はどうだ?」
顔を上げると、仮面を付け直したオシュトルがハクを見下ろしている。「もう少し冷やしておいたほうがいい。手ぬぐいを貸してくれぬか?」
「あ、ああ」
ハクは言われるままに手ぬぐいを渡すと、オシュトルは足元に置いていた水桶に温くなった手ぬぐいを浸した。その姿は、先ほどまでの軽い口調のウコン風オシュトルではなく、ただのオシュトルだった。
「オシュトル」
「何だ?」
「その仮面には、性格を変える機能でもついてるのか?」
「ハハ、面白い事を言う」
軽く絞った手ぬぐいを再びハクの太ももに乗せると、オシュトルはハクの目の前に座った。
「気分の問題だな。これは」
「気分、ねぇ」
「仮面は聖上から賜ったもの。それを身に付けている事で、気が引き締まるのだ」
「本来の地の性格はウコンなのか?」
「もしそうなら、今のお役目は某に回って来なかったであろうな」
確かに。いつものウコンが政務を行っている所を想像して首を振った。ありえない。そんなハクを見て、オシュトルは「ただし」と付け加えた。
「ウコンの時の某も、また某の本来の姿なのだ。決して偽りなどではないよ。其方への想いが変わらぬように、な」
(サラリと言ってくれる)
淀みの無い告白に、ある意味尊敬の念すら抱きかける。
「すごいよ、お前は。もし自分なら、そんな二役はできそうにもない」
「これでも苦労していたのだ。ハクと出会う事が出来て、某は幸運であった」
真っ直ぐに見つめられ、ハクはどきりとした。今日ここに来てから、オシュトルとの距離がとても近い。普段意識しない仮面に覆われた瞳は、まるで魔力でもあるのかと思うほどに、ハクの視線を釘付けにさせる。
「オシュトル……」
「ハク……」
今度は、お互いに望んだ接吻だった。オシュトルが舌でハクの唇の戸を叩く。薄く唇を開くと、するりと弾力のある舌が進入してきた。
「んぐ……」
オシュトルの温かな舌が、ハクの口腔を侵す。歯の裏をなぞり、その奥へ。ハクは縮こめていた舌先を、差し出した。オシュトルはその舌を絡め取り吸うと、己の口内へと導いた。
乾いていた唇が、お互いの唾液で濡れる。それが、どちらのものなのかも分からないくらいに、混ざり合っていた。
(ヤバイ、これは……)
体の芯が熱を帯びてくる。
オシュトルの着衣の背中にしがみつく。その肘をオシュトルが支えてくれた。そうでもされなければ、崩れ落ちてしまいそうだった。
まるで、媚薬だ。
もっと欲しいと、口を開けて餌を求める雛のように。
オシュトルの唇を、舌を、唾液すらも。
太もものひりつく痛みは引いていた。今は別の部分が、痛いほどに張り詰めている。
「これいじょ……だめ、って」
自制心を総動員して、ハクは弱弱しくオシュトルの腕を押した。それがどれほどの効果があるかわからないが。オシュトルは唇を離して、ハクの目を間近から覗き込んだ。
「それを、其方が言うのか」
ハクの内腿を撫でながら、オシュトルが言う。「今にもはちきれんばかりではないか」
「そ、それは男の性っていうか……」
生理現象なので仕方が無い。「お、お前だって……だろ?」
そう言って下半身を見下ろしたが、この国の衣服は基本的にゆったりとしたものなので、外見上はどうなっているのか良くわからなかった。ハクもちゃんと下を穿いていればこんなことにはならなかったと後悔した。
「ああ、そうだ」
しかし、オシュトルは素直に頷いた。「これでも、場をわきまえているつもりだが」
「いやいや、この時点でわきまえてないだろっ」
仮にも、職務を行う部屋なのだ。こんな所でいちゃついている事が民に知れたら、オシュトルの威厳は地に落ちかねない。股間を隠して、必死に顔を振るハクに負けたのか、端からそのつもりだったのかわからないが、オシュトルはハクの太ももから手を離した。
「もう、大丈夫のようだな」
「……ああ」
太ももの痛みの事である。
手ぬぐいを退けたオシュトルは、桶を手に部屋を退室していった。ポツンと取り残されたハクは、少し不安になる。
彼を怒らせてしまったのだろうか。
(そんな事言われても、自分は間違ってない)
正しい事を言ったつもりだった。己の本心ではなかったとしても。オシュトルもそう思っていたから、手を止めたのではないのか。
「……」
ハクは、茶を途中まで淹れかけていた湯のみを手に取った。僅かに溜まった茶を飲み下す。「ぬるい」
こうなればヤケ食いだ。
少し形が崩れた『しゅう』をポイポイと口に放り込み、咀嚼する。しゅうの中に入っている『れんにゅう』の甘さが口の中に広がった。
「ハク」
その声にハッと顔を上げると、障子を閉めたオシュトルが手に布のようなものを持って入ってきた。
「これを」
手渡されたものを広げると、ハクの物とは少し色が異なるが、似たような形の下穿きだった。
「其方のはまだ濡れているだろう。某の物でよければ使ってくれ」
「ああ……」
怒っていたわけではなかった。それどころか、己の服の心配までしてくれていた。
「ありがとな」
鼻をすすりながら、ハクはオシュトルに礼を述べた。そのハクの姿を見て、何故かオシュトルは噴き出した。ハクは訝しげにオシュトルを見上げる。
「何が、おかしいんだ」
「少し動かぬように」
オシュトルはそう言うと、ハクの顎を掴んだ。何事かとドギマギするハクに顔を近づけると、ハクの口の端をぺろりと舐めた。顔が離れると、オシュトルは舌についた白いものを口に入れる。
「甘い。だが、美味いな」
れんにゅうがハクの口の周りについていたらしい。慌てて自分の口元を拭ったハクは、文机の上を見た。気づかぬ間に全部自分で食べてしまったらしい。しゅうの残りかすが懐紙の上に残っているばかりであった。
「すまん、茶菓子全部食っちまった」
「それは残念だ。だが、また持ってきてくれるのだろう?」
オシュトルのその言葉に込められた想いに気づいたハクは、歯を見せて言った。
「ああ。いつでも持ってきてやるよ」
***
――甘美なる時は、疾く過ぎ行くものなり。
オシュトルは、その言葉を今ほど感じた事はなかった。
ハクは、茶に濡れた下穿きを風呂敷に包んで立ち上がると、オシュトルを振り返った。ハクの表情がどこか名残惜しそうに見えたのは、自惚れだろうか。
「じゃあ、自分はもう帰るぞ」
「ああ。長らく引き止めてすまなかった」
「自分はいいけど、お前の仕事の邪魔になったんじゃないか?」
「いや、逆に其方には礼を言わねばならぬ」
僅かな時間だったが、ハクとの逢瀬を過ごす事が出来たのだから。それが、己の活力になるだろう。
「そっか」
照れくさそうに鼻を掻いたハクは、障子を開く前にクイとオシュトルの袖を引いた。オシュトルの方を見ずに、ハクが呟く。
「じゃあな」
「ああ、また」
お互いに別れの言葉を述べたはずだが、ハクはその場から動かなかった。袖を掴んだまま離さないハクに、オシュトルは首を傾げた。
「ハク?」
「こ、こういう時って、アレするもんだよなッ、フツー」
アレ?
首を傾げたままのオシュトルに、ハクは顔を上げた。彼の頬は真っ赤に染まっている。
「その、あれだ。抱擁ってやつ……」
つまり、ハクは己に抱擁をしようとしていたのか。
あまりに初心な反応に、オシュトルは必死で笑いを堪えた。
「そうだな。某もうっかりしていた」
そう言って、ハクの腰に手を回す。ちゃんと飯を食べているのか不安になるくらいの細腰だった。単に筋肉がつきにくい体なのかもしれない。薄い背中を手のひらで撫でながら、オシュトルはハクの耳元で囁いた。
「次は、床を整えておけばよいのか?」
「ネコネに殺される未来しか見えないんだが、それは」
よほどネコネに苦い記憶があるのか、ハクは腕の中でそう呟いた。
「我が妹は、それほど融通の利かぬことは無いと思うが」
「それ、絶対『自分の娘に限って』とかそういうのと一緒だから」
勢い良く顔を上げて、ハクは言った。それ以上は何を言っても無駄になりそうだ。オシュトルが腕を解くと、ハクは咳払いしながら障子戸を開けた。
廊下を見回して、誰も居ないことを確かめると、安心したようにハクが振り返る。
「邪魔したな、オシュトル」
「いや。また参られよ」
いつものように挨拶を交わす。ほたほたと暢気に歩くハクの後姿を、オシュトルは戸口から見守った。すると、思い出したように彼が振り返った。
「なぁ、オシュトル。ここに、花とか樹とか植えたらどうだ?」
思いも寄らなかった提案に、オシュトルは首を傾げた。確かにこの屋敷は華美な装飾は一切ない。いっそ質素と言っても差支えがなかった。そのため、庭も殺風景と言われて見れば其の通りだった。
「何故、そんな事を?」
「いや、その方が花見とか出来ていいかと思って」
「花、か」
元から自生している樹はそのままにしてあるが、それ以外はさっぱりだった。ハクの言葉に庭を見回した。この場所に、彩った花を愛でながらハクと酒を酌み交わす……悪くない。
「考えておこう」
「そっか」
オシュトルの返答に相好を崩したハクは、手をひらひらとさせて廊下の向こうへと消えた。