「ねぇ、ハク。これオシュトルの所まで持っていってくれないかな」
「んー?」
自室でうたた寝をしていたハクは、顔の上に乗せていた書冊を持ち上げた。視界が開けた先には、腰に手をあてて呆れ顔のクオンの姿があった。
「また寝てたの?」
「またとは何だ。人聞きの悪い」
心外だ。自分だってやる事はやっている。ただ、溝さらいの仕事があった次の日は筋肉痛で動けなくなる。それだけの事だ。
ハクは、心の中でブツブツと反論の言葉を並べ立てた。だが、それを口にする事はない。言ってもムダだということを悟っていたからだった。ハクはよっこいしょと体を起こすと、クオンから包みを受け取った。
「何だコレ」
手のひらの上に乗せられた小さな巾着状の包みを見つめる。
「オシュトルに頼まれていた薬を調合してみたの。切り傷や擦り傷に良く効く塗り薬だよ」
「ふぅん。アイツが使うのか?」
「さぁ、どうなんだろ? そこまでは聞かなかったかな」
オシュトルに限って、手傷を負うなんてことは考えられなかった。ハクの知る限りの戦闘では、常に涼しい顔をしていたのを覚えている。
「ま、いっか。届けるだけでいいんだろ?」
「そうだよ。よろしくお願いするかな」
それ以上追求することなく、ハクはクオンから頼まれたお使いに出かける事にした。
巾着を袖の中へと入れて、白楼閣の門を出る。ほたほたと暢気な足取りで、ハクはオシュトル邸へと向かった。
朝は筋肉痛だった足も、今はすっかり調子が良くなっている。最近筋肉痛の治りが早いのは、ひとえに度重なる肉体労働の賜物なのかもしれない。
聖廟方面にある大きな屋敷。そこがオシュトル邸である。門前に立つ、今は顔見知りとなった番人に声を掛けた。
「よっ、ごくろうさん。オシュトルは居るかい?」
「ああハク殿。残念ながら、主は留守にしております」
「へ?」
これは意外。クオンに頼まれたものだから、てっきりオシュトルは在宅なのだと思い込んでいた。
「すぐに帰ってくるか?」
「特に遅くなるとは窺っておりませんので、恐らくはすぐ戻られると思いますが」
「じゃあ、執務室で待たせてもらってもいいか?」
「それは……あ、ハク殿っ」
困惑する門番を背に、ハクは勝手知ったるなんとやら。オシュトルの執務室へと真っ直ぐに向かう。縁側沿いの廊下を歩き、目的の部屋の前に立つと、ハクは己の後ろを着いてきていた門番を振り返った。
「心配すんな。別に悪さしようなんて思っちゃいないさ」
「わかってはいるのですが、一応確認しておかないと」
門番の言う事も尤もである。顔見知りと言えども、物騒な世の中なのだ。何があるか分かったものじゃない。ハクは、目の前の執務室の障子を指差すと「この中で待っててもいいか?」と訊いた。
「分かりました。絶対にその部屋から動かないでくださいよ」
「分かってるって」
渋々と引き下がった門番に礼を言うと、ハクは執務室の障子を開けた。墨と紙の匂いが鼻を突く。相変わらず忙しくしているらしく、文机には書簡がいくつか積まれたままになっていた。
「絶対自分だったら逃げ出してるな」
文机の正面に敷かれた円座に腰を下ろす。ここがいつもオシュトルと面会をする時の定位置だった。以前はクオンと一緒に来ていたのだが、最近はハクの事を信頼してくれているのか、何か重要な案件がある時以外は一人で来る事が多くなっていた。
クオンはクオンで、なにやら色々と忙しいらしいので、それについては文句をつけるつもりは無い。彼女たちに比べて、ハクのできる事は限られているのだから。
「これくらいの事なら、毎日だって構わないけどな」
重たい泥をかき集めているよりは、よっぽど腰に優しい。
そんな事を考えながら、ハクはあたりを見回した。障子によって外界から遮断された部屋は、ただただ静かだった。己の呼吸音が耳まで聞こえてくるくらいだ。
こんな静寂の中、一人であの男は何を考えているのだろうか。
「しかし、匂う
な」
墨の匂いだ。それが、ずっとハクの鼻にまとわりついている。見れば、目の前の文机から漂って来ているようだった。ハクは座ったまま首を伸ばすと、何やら中途になっている書らしきものが目に留まった。硯には、まだ乾いていない墨が入ったままだ。
「オシュトルも、途中で放り出すってことあるんだな」
少し親近感を覚えたハクは、ふと笑う。一体その紙には何が書いてあるのだろうか。ハクは内容が気になって仕方がなかった。
「んー」
その場から見えないものかと、背筋も伸ばしてみたが、遠くて良く見えない。ハクは、誰がいるわけでもないがキョロキョロとあたりを見回し、膝立ちで文机の側へと寄った。いつもオシュトルが座っている位置まで膝を進めると、机に広げられている書を覗き込んだ。
「これは……」
オシュトルの流れるような筆致に、ハクは唸った。「兄妹揃って達筆とは……」
読み書きがようやくできるようになったばかりのハクに、この解読は難易度が高い。それでも、読めるところは無いかと、流麗な文字を見つめる。
「『思い出す、……くろかみ、の』『ぬくもり、を、共に……』?」
どう見ても、これはオシュトルがいつも抱えている仕事の内容とは程遠いようだった。どちからというと、誰かの事を思い描いた文章のような気がした。
「なんか、これって『恋文』……?」
途切れ途切れに読み取れる内容からして、恋焦がれた人へ宛てた内容ではないだろうか。それも、『温もりを共に』という言葉から、結構な親密具合だと感じた。
「オシュトルが、ねぇ……へぇぇ」
ハクは、ため息と共にそう吐き出した。
オシュトルの意外な一面を垣間見たような気がした。同時に、何故だか胸に重石が乗っかったように苦しくなる。
「なんだ、これ」
己の胸に手をあて、ポツリと呟く。初めての感覚だった。今までの戦闘で、気分が悪くなる事は多々あったが、それとは違う苦しさだった。
オシュトルが、誰かに恋をしている。ただそれだけの事ではないか。それなのに、何故己の心が苦しいのだろうか。
「なんだ……これ」
ハクは、もう一度繰り返した。
その時、廊下の方から足音が聞こえて来た。ハクはハッと顔を上げた。
「ハク殿。参られていたのか」
オシュトルが執務室に入ってきた時には、ハクは元の円座に座っていた。それを横目に、オシュトルは文机の前、己の定位置へと腰を降ろした。
「今日はどのような用向きだろうか」
「ああ。なんかクオンからお使い頼まれてさ」
ハクは、そう言うと袖の中からクオンに渡された巾着袋を取り出した。
「塗り薬だってよ」
「わざわざ届けにきてくれたのか。ありがたい。クオン殿にも礼を言っておいてくれ」
オシュトルの目の前にある文机に置くと、ハクは目を伏せたまま、そそくさと立ち上がった。
「じゃあ、自分はこれで……」
「待たれよ、ハク殿」
一刻も早く帰ろうとするハクの腕を掴んで、オシュトルは引き止める。その仮面の奥から、訝しむような視線をハクへと向けている。
「何か、あったのか?」
「いや……何も」
何もかも見透かされそうな目から逃れるように、ハクは顔を背ける。
「何もないと言うわりに、思うところがあるような目をしているが」
「……」
このまま何も見なかったフリをして出て行けたら一番よかった。そうすれば、明日からもまた、いつものように軽口を叩けたかもしれないのに。
しかし、オシュトルの腕の力強さは、ハクをそう簡単に解放してくれそうにもない。仕方なく、視線を文机へと向ける。
「悪い。それ、ちょっと見ちまった」
「それ?」
オシュトルは文机の上に書きかけの文章を見つけ、ああ……と苦い笑みを浮かべた。
「読んだのか?」
「ところどころ、読めるところだけ……」
「そうか」
そう言うと、オシュトルはそれを手に取ると、声に出して読み始めた。
闇の帳が落ちた頃、思い出すのは黒髪の君。
触れた肌のぬくもりを忘れられず、
共に歩む白き光を想い、目を閉じる――。
やはり、恋文だったのか。
ハクは、胸の奥がチクリと痛むのを感じた。どう考えてもこの文章は『黒髪の君』とやらに向けた文ではないか。そう思って顔を上げると、オシュトルと目が合った。彼はじっとハクを見つめながら口を開いた。
「近々行われる詩会に呼ばれてな。断ったのだがどうしてもと言われて、一文考えていたのだが」
この有様だ。
ひらりと紙を文机に落とした。「某に詩の才能はないようでな」
「……恋文、じゃなかったのか」
ただの早とちりだったのか。ハクはほっとため息をついた。しかし、恋文ではなかったとしても、それは誰かを詠んだ詩に変わりない。
「自分にもそういう感性はわからんが、これは誰かを想って詠んだ詩じゃないのか?」
「いかにも」
やっぱり、オシュトルには想い人が居るのだ。ハクは再び気分が沈むのを感じた。何故こんなに落ち込むのか、ハク自身も良く分かってはいなかった。
親友に、想い人が居るのはいいことじゃないか。それを、何故こんなに悲しく思うのか。
「そっか。その女に想いが伝わればいいな」
痛みを隠して、ハクは歯を見せて笑った。
「じゃあ、自分は帰る、」
「待たれよ、ハク殿」
暇を告げるハクの言葉を遮り、オシュトルは再び詩の書かれた紙を手に取り、それをハクに押し付けた。
「ナンダヨ」
紙を胸に押し付けられたハクは、それを手に取りオシュトルを見上げる。オシュトルの目は真っ直ぐにハクを見つめ返している。
「某の想い人が、女性だといつ言った?」
「何?」
その言葉に、ハクは詩を読み返した。確かに、この詩の中にはこの人物が女性だという言葉は一言も入ってはいないが……。
「白とはハクとも読む。――其方を想って詠んだ詩だ」
「……自分を?」
オシュトルの言葉に、ハクはヨロヨロと後ずさり、先ほどまで座っていた円座に尻餅をついた。足に力が入らない。
驚いたと同時に、オシュトルの想い人が己だという事に、気が抜けてしまったのだ。
「ハク殿!」
駆け寄ったオシュトルを見上げて、ハクは呟く。
「ビックリした」
「それは、重畳」
口元を緩めて、オシュトルはハクの前に膝をついた。
「それは、其方も某の事を想ってくれていると、考えても良いのだろうか」
もう、心の重石は消えていた。ハクは目を閉じて己の心に問いかける。
――自分は、オシュトルの事をどう思っているのか。
再び目を開けたハクに、迷いは見えなかった。
「自分は、お前の事が好きだ。この紙を相手に嫉妬する程にはな」
そう言うと、ハクは手に持っていたオシュトルが書いた詩を懐に仕舞いこんだ。
「だから、これはお前からの恋文だと思って、自分が持っておく。いいだろ?」
文字の手本にもなるし。
そう付け加えたハクに、オシュトルは困ったような笑みを向けた。
「ああ。そうしておいてくれ。某の最初で最後の恋文かもしれないからな」
後日、ハクの洗濯物の中からその紙が見つかり、送り主について女性陣と一悶着あったのは、また別の話である。