心地のいい場所 その3_2【ウコハク】

 

 目を開けても、何も見えなかった。見えないというか、真っ暗闇。それもそのはず、ハクは目隠しをされていた。

(どこだ、ここは)

 怪しげな茶を飲まされた。そして、どうやら捕まったらしい。まだ頭が少しぼうっとしている。ハクはもぞもぞと手足を動かしてみた。紐のようなもので後ろ手に縛られているらしく、身動きが取れなかった。

(せめて目だけでも見えれば)

 ハクは目隠しをはずそうと顔を横に振ったり、顔の中央に皺を寄せて上げてを繰り返してみた。

 

「ぬぉぉ」

 

 思わず声が出る。慌てて口をつぐんで耳を澄ませた。幸いなことに側に人の気配はないようだ。

(あぶねぇ)

 今のハクなら子供にだって息を止めるのは容易いだろう。自分の力を過信しない。それが己の良いところだとハクは思った。

 だから、この状況はすごくまずい。

 クオン達に鍛えられ、しぶとさには定評のあるハクであったが、今度ばかりはそうも言ってられない。

(あいつら、心配してるかな)

 溝さらいも途中でほっぽり出してきてしまった。何も言わずに姿を消した己の事を、気にかけてくれているだろうか。

 

 ――どうせ、その辺りでお酒でも呑んでるのです。放っておくのです。

 

 ネコネなら言いかねない。

 

 気分が沈む。そんな時、目隠しの隙間から仄かな灯りが見えた。ハクはもう一度顔を地面に押し付けると布を引き剥がさんと顔をずらした。

(おっ、見えた)

 僅かだが、右目が布から出た。ハクは辺りを注意深く観察する。

 大人二人くらいは寝ることが出来るような、ごく狭い部屋の隅には、埃をかぶった箱がいくつか積まれている。そして、目の前にある三段ほどの階段の出入り口の隙間から、灯りが漏れているらしかった。

 家の物置きのようだ。

 そこまでは推理する事ができたが、此処が何処の物置きなのかが分からない。

 意識を失う前、男は薬売りの事を言っていた。ということは、オシュトルが追いかけている例の媚薬を売る一味と考えていいだろう。ハクの残念な尾行により、ハクの面が割れてしまった、という所だろうか。

 

(自業自得か、こいつは)

 ハクは上げていた顔を下ろして、地面に頬をついた。ひんやりとした地面の感触が頬を冷やす。ハクは心を落ち着かせて、これからどうするべきかを考えようとした。

(どうするもこうするも、動けないんだけどな)

 手も足も出ないとはこの事である。ただ、口だけは自由だ。ということは、やはり相手を口先で丸め込む作戦で行くしかないという事だ。――失敗すれば、命はない。

 

「ここで、こうしているよりマシか」

 

 ハクは決意を口に出すと、思い切り息を吸った。

 

「ここはどこだ!! おい! この縄をほどけッ」

 

 そう叫びながら、縄を解こうと、手足をジタバタさせた。腕の皮が縄で擦り切れそうだ。

 

「おいッ、誰か居ないのか!? 早くココから出せー!」

 

 暫くの間、ハクはそう叫びながらゴロゴロと転がっていた。埃が物置き内に舞って息苦しい。

 すると扉が僅かに開き、その隙間から男が顔を覗かせた。ハクに薬を盛ったカギ尻尾の男とは違うようだった。全体的に大きい。

 

「静かにしやがれッ。死にたいのか!」

 

 声まで大きかった。

 

「こんな所に放り出されてちゃ、夜になったら凍えて死んじまう。早く出してくれ」

 

 ハクは身を縮めて、男に訴える。「自分は何をする気も無い。な? 出してくれよ」

 すると大男の肩を押しやって、もう一人男が顔を出す。こちらは口元を布で隠している。耳と尻尾が黒い。そして全身が黒い男だった。

 

「何もする気が無いなら、何故あの薬売りの事を嗅ぎまわっていた?」

 

 さっきの男とは違い、冷静な声で黒ずくめの男はハクに問いかける。「お前は、お上の手の者か」

 

「そんな大層なもんじゃない。ただ、興味があったのさ」

「興味?」

「ああ。媚薬ってやつにさ」

 

 そう言って、ハクは口元を緩めた。

 

「そういうのって、男だったら興味あるだろ? それを相手に使ったら、一体どんな反応するのかとかさぁ」

 

 相手は、じっとこちらを見つめていた。ハクは続ける。

 

「だけど、そういうのってやっぱり一見さんお断りなところあるだろ? だから、あの薬売りの住んでる所とか調べて、通いつめようかと思ってたのさ」

「そんな言い訳を信用しろと?」

「お上の隠密なら、自分なんかと違ってもっと上手くやるさ。それこそ、誰に見つかったりもしない」

「確かにな」

 

 あっさりと頷かれて、心の中で泣いた。しかし、ハクの言葉に耳を傾けてくれるようになったのは良い傾向だ。

 

「おい、そいつを連れて来い」

 

 黒ずくめの男は、大男にそう指図した。窮屈そうに物置に入ってきた男は、ハクの腕を乱暴に掴んだ。

 

「いでででッ。もうちょっと優しくしてくんない?」

「うるせぇっ。ちょっとでも変な素振りしてみろ。オレがその細首へし折ってやるぞ」

「……へい」

 

 本気で簡単に折れそうだから怖い。

 部屋に上げられ、目隠しと足の縄を解かれる。手首の縄は警戒しているのか、解いてはもらえなかったが、足を崩せるようになったのは幸いだった。慣れてない灯りの眩しさに目を細めながら、ハクは部屋の中を観察する。

 この部屋の中には、男が五人いた。一人は先ほどの大男で、もう一人が黒ずくめの男。この男が彼らの頭目のようだった。そして、部屋の隅に薬箱を脇に置いて座っているのが、件の薬売りだった。残りの二人のうちの一人には見覚えがある。あのカギ尻尾の男だ。彼らはこの頭目の手下だろう。

(どう考えても多勢に無勢。ヘタに刺激しないほうが良いな)

 五人相手に立ち回るなんて無謀すぎる。これがもしウコンだったならば、一人でどうにかできたのかもしれないが。

(そういや、あいつは自分が居なくなった事に気がついただろうか)

 もし、気付いてくれているなら、助けが来る可能性がある。ただし、己の事を切り捨てないで居てくれるならば、だが。

 ヘタをすると、自分の後ろ盾になっているのがオシュトルだとバレるかもしれない。そう考えると、あの男が動かないほうが懸命である気はする。

 

「それで」

 

 頭目が、再び口を開いた。

 

「お前は、この薬屋に媚薬を売ってもらいたかった。ただ、それだけか?」

「へ、へぇ。ただし……」

 

 ハクは、一瞬言葉にするのを躊躇った。この先を口にすれば、引き返す事ができないような気がした。しかし、どう転んでも生きるか死ぬかの二択だ。

(ええい、どうにでもなれっ)

 ハクは心を決めると、言葉尻を継いだ。

 

「ただし、本当に効き目のある強い媚薬だ。そういうのを探してる」

「お前、その話は何処で聞いた?」

 

 頭目が、低く問いかける。

 

「それが、お上の認めてない薬だって知ってて言ってるのかい?」

 

 ――やはり、あるのか。

 

「先日、色町で聞いたんだ。その薬を使った相手は、天にも昇る気分になるっていう噂だ」

 

 多分。

 ハクは、恐らくこういう効能なのだろうという言葉を並べた。実際の効力の程はよく分からなかったからだ。ただ、ヘタをしたら使用者は死んでしまうということらしいが。

 

「見たところ、あんたはそれほど色狂いには見えないがねぇ」

 

 ギクリ。

 ハクは、頭目の言葉に、照れたように笑った。

 

「これでも結構ムッツリなところがありまして、それはもう、夜はお盛んでございますよ。ハハハ」

 

 なかなか苦しい言い訳のように聞こえてきたが、今はただの色情狂になりきって乗り切るしかない。

 

「その薬、譲っていただけないんだったら、諦めます。このことも内密にしますんで、解放してくれやしませんかねぇ」

 

 手が自由ならば、胸の前でゴマスリでもしそうな勢いだった。ハクは眉根を寄せて、懇願するように目の前の男を見た。頭目はじっとハクの方を見て何事かを思案しているようだ。

 

「じゃあ、こうしよう」

 

 頭目が口を開いた。

 

「今から、あんたにその媚薬を飲ませる。その効果を自分の体で確認して、無事だったら薬を売ってやろう」

「へ……?」

 

 ハクはポカンと口を開いた。

 

「媚薬っていうのは、女に使うもんじゃないのか?」

 

 頭目はニヤリと笑う。

 

「誰が女用だと言った? それに、あの薬屋が出入りしていた場所を思い出してみろよ」

 

 そう言われて、ハクはハッとした。確かにあの場所は、男を買う茶屋だった。血の気が引いていく音が聞こえるようだった。

 頭目は薬売りから受け取った液体の入った瓶を受け取ると、ハクを見た。

 

「この薬は量を間違うと、心の臓が弱って死んでしまう。だから危険だって言われてるんだ。ただ、お前さんが言ったように、上手く使えば天にも昇る気持ちになるだろう」

「ま、待てっ自分はそんな気は全く……っ」

 

 後ずさろうとするハクを、後ろから大男が羽交い絞めにする。

 

「う、うぐッ」

 

 苦しい。窒息してしまいそうだった。

 

「だが、一つどうしても消せない副作用があってな」

 

 瓶の蓋を開けながら、男は笑う。

 

「一度使うと、この薬に依存しちまうのさ。他の薬じゃ満足できなくなる。欲しがるヤツが多ければ多いほど、こちらとしても儲かるんだがね」

「ヤ、やめっ」

 

 トロリとした蜜のような液体が、瓶の蓋から糸を引いた。それをハクの頭上に掲げて大男にハクの口を開けさせようとした。ハクは歯を食いしばって、顔を振った。

 

「もし、本当にあんたが薬を欲しいなら、効果も体験できて一石二鳥じゃないか」

「……っ」

 

 涙目で見つめるハクに、頭目は笑う。

 

「心配すんなよ。こいつらは男の扱いに慣れてるから、あんたを満足させてやれるんだぜ?」

 

 その言葉に、ハクはルルティエが大切にしていたある書冊の絵が思い浮かんだ。頬を赤らめ、何かを懇願するような視線をもう一人の男へと向けている、男の姿絵を。

 背中がゾワリとした。あの書冊のような状況になる己の姿が実に想像できなかった。

 顎を無理やり開けさせられ、口が僅かに開いた。頭目は目を細めて瓶を傾ける。

 瓶の口から液体がハクの口に注がれようとした時、一筋の風が、目の前を横切った。瞬間、瓶がハクの目の前ではじけ飛び、液体が方々に散った。

 

「何だ!?」

 

 一瞬何が起こったのか分からなかった。それは、その場に居た五人の男たちも同様だった。ハクは風の通り過ぎた先を見る。格子窓から一直線に飛んできた矢が一本、部屋の柱に突き立っていた。

 その事に気づいたのもつかの間、突然、部屋の入り口の障子に鮮血が散った。

 

「ひぃっ!?」

 

 声もなく、控えていた男二人が前のめりに倒れる。その様子に薬売りの男が腰を抜かした。

 

「曲者かっ!」

 

 頭目は腰に佩いた刀に手をかける。注意は入り口に注がれていた。ハクはいまだ、大男に締め上げられている。そろそろ息が切れそうだった。足をジタバタさせて、どうにか逃れようとしていた。その時、

 

「うっ!」

 

 突然大男が背後で声を詰まらせると、膝から崩れ落ちた。

 同時に、緩んだ腕の中からハクは床に転がった。

 

「いてッ」

「ワラナ! どういうことだ……」

 

 ワラナというのが、恐らく大男の名前なのだろう。ハクが膝をつきながら目を上げると、天井の板が一部はがれてぽっかりと暗い天井裏が覗いていた。誰かがそこに潜んでいたかのようだった。しかし、その姿は既にない。

 

「一体何が……」

 

 ハクは、うめき声をあげて倒れている大男を恐る恐る覗き込んだ、大男の背中には、かんざしのような太い針が刺さっている。致命傷ではないようだが、もしかしたら何か薬剤が塗られているのかもしれない。

 

「やっぱりお前、お上の隠密だなっ!」

 

 姿の見えぬ襲撃者に慄いた頭目は、腰に下げていた刀の鞘を抜き、切っ先をハクへと向けた。

 

「ま、まて。自分は何も知らないっ」

 

 手首を縛られたままでは完全に不利だ。ハクは刀から逃れようと、ジリジリと尻で後ずさった。

 

 

「そこまでだ!」

 

 

 力強い声が、室内に響いた。頭目はハッと体を強張らせて、声の方を見遣る。袈裟懸けに破れ、鮮血のついた障子が勢い良く開いた。そこにいたのは、

 

「ウコン……」

 

 確かに、それはウコンだった。

 ハクの声が届いたのか、ハクを一瞥しただけで、目の前の頭目に視線を戻す。ウコンは、腕を胸の前で組んだまま、男を睨みつける。

 

「右近衛大将オシュトルの命により、薬物売買の咎でアンタと、そこに居る薬売りを捕縛するぜ」

「ケっ。お前になんの権限があるっていうんだ!」

「委任状なら、ちゃんと此処に戴いてある。オシュトルの旦那は忙しい男だからな。お前たちみたいな雑魚には構ってられねぇってよ」

 

 そう言いつつ、視線をハクへと向けた。

 

「ただし、大事な友人を危ない目に合わせたからには、ただでは済まないと思いな」

 

 その視線に、ハクは内心ドキリとした。ウコンの視線は、友人よりももっと大切な者へ向けられるようなものだったからだ。

 

「ウコン……」

「その大事な友人とやら、今此処で斬り捨ててやろうじゃないかッ」

 

 頭目は、そう叫びながら、ハクへと刀を振り下ろした。その刹那、彼の手から刀は吹っ飛ばされていた。

 飛ばされた刀が部屋の壁に突き刺さる。

 ハクは目を見開いてウコンを見た。彼は先ほどまで鞘に収まっていた太刀を抜いていた。

(これが、ウコンの……オシュトルの実力か)

 ハクは、まるで己が斬られたかのように唾を飲んだ。彼が連れてきていた手下に頭目と薬売りの男を捕縛させ、他の気絶している男達を運ばせている間も、ハクは呆然と尻餅をついたまま彼を見つめていた。

 彼らを見守るウコンの背中が、オシュトルの姿と重なる。頼もしくもあり、うかつに近づくことを許さぬかのような雰囲気を纏ったその背中は、まるでハクを守るように入り口に立ちはだかっていた。

 男たちが運ばれ終わったのを確認したウコンは、太刀を腰の鞘に戻すと、ようやくハクの方を向いた。

 

「よぉ、アンちゃん無事かい?」

「ウコン……」

 

 ウコンはゆっくりとした足取りで、ハクの方へと歩み寄ると、後ろ手に縛っている縄をはずしてくれた。その間、二人の間に言葉はなかった。

 ハクは、なんて言葉をかけるべきかを思案した。元は己が招いた事だった。尾行がバレていた時点で、警戒するべきだったのだ。ウコンもそう言っていたではないか。

 

「ウコン、自分のせいで……」

「アンちゃん、済まねぇ」

 

 謝ろうと口を開いたと同時に、ウコンの言葉が重なった。顔を上げたハクの顔に、影が落ちる。ウコンの顔が間近にあった。

(あ……)

 このままでは、接吻される。

 そう思ったが、ハクは抵抗する気持ちにはならなかった。薄く開いた己が唇に、ウコンの唇が重なった。柔らかくて、あたたかな感触が、唇に伝わる。

 一瞬にも、数刻にも思えた時間だった。

 名残惜しそうにその唇が離れると、ハクは目を見開いてウコンを見た。彼は、眉根を寄せてハクを見つめている。

 

「アンちゃんを危険な目に遭わせちまったな」

 

 そう言って、ウコンはハクの肩に手を置いた。

 

「解決の糸口を作るには、アンちゃんに接触して来たところを捕まえるしかなかった。……その分、アンちゃんには怖い思いをさせちまったな」

 

 まるで、何事もなかったようにそう言った。

 

「いや……これは、自業自得というか」

「いいや、俺のせいだ」

 

 肩に置かれた手に力がこもる。屋外でガラガラと荷車が去っていく音がした。ウコンの手下達が下手人達を運んでいったのだろう。ここに居るのは、二人だけなのかもしれない、とハクは思った。

 何か別の話をするために、わざと残された。そんな気がしてならなかった。

 

「わかった。自分はお前のせいで危険な目に遭った。だが、お前は助けてくれたじゃないか。それでいいだろ?」

 

 ハクは、ウコンの言い分を譲歩する形で締め括り、ウコンの背中を叩いた。

 

「ありがとうな、ウコン」

 

 ウコンはその言葉に、少し困ったように眉を下げると、座り込んだままのハクの体を両腕で抱き寄せた。

 

「ああ、もう、たまらないねェ、アンちゃんは」

「う、ウコン?」

「さっきからずっと、堪えてたんだぜ」

 

 突然の抱擁に、ハクはウコンの胸元を掴んだ。そしてウコンは、ハクの後頭部を抱くように肩口に引き寄せる。

 

「な、何を?」

 

 いつもより近くに、ウコンの匂いを感じた。汗と、服に焚き染められているのか、微量の香の匂いを。

 

「アンちゃんを、こうやって抱き締めるのを、さ」

 

 ウコンは、ハクの首筋に己の顔をうずめた。ウコンの耳が動くたび、さわさわとハクの髪を揺らす。ハクは思わず首をすくめた。

 

「おい、くすぐったいぞ、ウコン」

「ああ、済まねぇ。つい感情が耳に出ちまったか」

 

 そう言いつつも、ウコンは顔を離す事はしなかった。スンスンと何やら首筋の匂いを嗅いでいる。

 

「あ、あの~、ウコンさん? ナニをしてらっしゃるのでしょうか」

「アンちゃんの匂いを嗅いでる」

 

 それは、分かっているのだが……。

 

「そろそろ離してもらえると、こちらとしてもありがたいんだが……」

 

 ハクは、控えめにお願いしてみた。目を閉じて、細く息を吐く。

(このままだと、自分は引き返せなくなりそうだ)

 床に飛び散った媚薬のなどではない。むしろそのせいであった方が、言い訳が立つかもしれない。

 先刻の男達に嬲られるかもしれないと思った恐怖とは別の感情が、ハクの腹の底から湧き上がってくる。

 

 ――自分は、恋をしている。

 

 この力強い腕に、声に。

 だから、この先を思い描くのが怖いのだ。

 

 

「なぁ、アンちゃん」

 

 ゆっくりと顔を上げたウコンは、ハクを見下ろした。ハクはようやく目を開けて、その顔を見た。

 炎を宿したかのような緋色の瞳が、ハクの今にも泣き出しそうな顔を映し出していた。ウコンは、その頬を宥めるように優しく触れた。

 

「もう一度、接吻してもいいか?」

「……あぁ」

 

 再び重なる唇。今度は先刻よりも長く、深い口づけになった。乾いたハクの唇を湿らせるように、ウコンの舌がハクの唇の表面をなぞる。そのまま歯列を割って、ウコンはハクの口内へと舌を挿し入れた。

 

「ふ……」

 

 ハクは思わず声を漏らした。己のものでは無いようなその声に、顔が火照る。今にも逃げ出したい所だったが、生憎ウコンの腕がそうさせてはくれなかった。

 柔らかい濡れた舌が、ハクの舌と絡まった。そこに嫌悪感はない。あるのは、お互いにもっと触れたいという衝動だった。

 

「ウコン……これ以上はヤバい」

 

 息苦しくなって、ハクは唇を離しがてらそう言った。今立てと言われても、一人で立てるか怪しかった。

 

「何言ってやがる。俺はとっくにヤバくなってる」

 

 ウコンはそう言うと、ハクの手を取り前垂れの裏へ差し入れた。そこに、ハク自身よりもご立派なものがあることが、布越しにも伝わった。

 

「な、なななな何触らせやがるッ」

「心配すんなよ。アンちゃんのも触ってやるから」

「誰も触っていいとは言って無いぞ」

 

 ハクの股間へと伸ばして来たウコンの手をがっしりと掴む。二人の間に、微妙な空気が流れた。

 

「あー、あのなぁアンちゃん」

 

 ウコンは困ったように頬を掻いた。

 

「差し支えなければだが、これからアンちゃんを抱いてもいいか?」

 

 なんとなくそう言われるような気がしていたハクは、首をきしませながらあたりを見回した。

 

「いやー、ココではちょっとな……」

 

 先ほどまでひと騒動あった場所である。血痕は残っているし、媚薬と思われる瓶の破片がそこかしこに散らばっている。

 

「じゃあ、ここでなければいいのか?」

「待て、さっきの薬売りたちの裁きはどうするんだ」

「そんなの後回しでいい。どうせあいつらは治療が必要だし、色々面倒な調査も後日行われる」

「……」

 

 これ以上言い訳を思いつかなくて、ハクは観念したようにウコンを見上げた。

 

「ウコン。自分は、正直怖いんだ」

 

 そして、素直な気持ちを口にする。

 

「お前を好きだという言葉に嘘は無い。ただ、この体がお前の気持ちに応えられるかが、正直わからん」

 

 未知への恐怖が、一歩踏み出す事を躊躇わせている。

 

「そうだな。それは、俺も一緒さ」

 

 ウコンは、ハクの頭を妹にするかのように優しく撫でた。

 

「無理強いする事で、アンちゃんに嫌われたくない。だから、アンちゃんの気持ちを優先したいのさ」

「ウコン……自分は」

 

 彼の手のひらの温かさに、不安が溶かされていくかのようだった。ハクは、頭の上にあるウコンの手を自分の胸の前へ握り込むと、消え入るような声で呟いた。

 

「自分も、お前としてみたい」

 

 

 ***

 

 ハクが捕らわれていた場所は、帝都の中心部から遠く離れた鄙びた場所だった。

 手入れのされていない雑木林の中にぽつんと忘れ去られたように建っていた小さな小屋は、二間と物置だけの簡素な造りだった。ハクたちは、騒動のあった部屋の隣へと場所を移して、初めての時間を過ごしたのだった。

 

「へっくし」

 

 情緒のカケラも無いくしゃみをしたハクに、ウコンはカラカラと笑うと、囲炉裏の火を熾した。小さな炎の前に二人並んで腰を下ろす。肩に掛けられたウコンの羽織をハクは胸元にかき寄せた。

 

「寒いかい?」

「うん、ちょっとな」

 

 ハクがそう言うと、ハクの体を背後から抱きこむような位置に移動した。背中がウコンの体の熱で温かい。

 格子窓の外は、もう陽が落ちているようだった。連れ去られる前は確か昼になるかならないか位だったので、結構な時間が経っている。

 

「クオン達、心配してるだろうな」

「一応、彼女たちには俺とアンちゃんとで出かける事は伝えてあるぜ」

 

 なんとも用意周到な。

 ハクは、首を回してウコンを見上げた。

 

「一応、礼は言っておく。ありがとうな、ウコン」

「なんの。お陰でアンちゃんとこうやって、しっぽり出来たんだからな」

「しっぽりとか言うな、しっぽりとか!」

 

 先ほどまでの自分の姿態を思い出して、ハクは顔を赤らめた。顔を覆って、首を振る。

 

「もう自分、おムコさんに行けない」

「アンちゃんの事は、俺がずっと大事にしてやるからよ」

 

 安心しな、とウコンは笑った。

(ずっと、か……)

 ハクは、覆っていた手を下ろすと、立膝に頬杖をつきながら、囲炉裏の炎を見つめた。

 

「なぁ、ウコン。それは、自分が何者か思い出したとしてもか?」

「ん?」

「もしかしたら本当の自分は、重大な犯罪を犯したヤツなのかもしれない。このヤマトに害をなす人物なのかもしれない。……それでもか?」

「……」

 

 ウコンは、ハクの胸の前で腕を交差させると、同じように炎を見つめて囁いた。

 

「そうだな。記憶が戻ったせいで、アンちゃんが俺の事を忘れちまったとしても、俺はアンちゃんの事を忘れたりはしないし、嫌いになったりもしない」

 

 ただ、とウコンは言葉を継いだ。

 

「今後、ヤマトに仇を為すなら、オシュトルは躊躇い無くアンちゃんを討つだろう。それは、ヤツがヤマトの臣だからだ。それはわかって欲しい」

「うん。わかってる」

 

 ウコン、いや、オシュトルらしい言葉だと思った。ヤマトの重鎮であるからの責務は、こんな恋愛感情一つでどうとなることではない。

 

「ありがとな、ウコン」

「あー、やめだやめだ! こんな暗い話、俺は性に合わないんだよ」

 

 そう言うと、ウコンは立ち上がった。

 

「そろそろ帰るか。姉ちゃん達もいい加減俺たちの仲を怪しんでるかもしれないし」

「そうだな」

 

 それぞれに自分の衣服を身につけると、ハクは自分の服の匂いを嗅いだ

 

「何か甘い匂いがする」

「さっきの媚薬の液がついたのか?」

「そうかもしれん」

 

 こんなことで取れるわけは無いだろうが、ハクはパタパタと服を仰いだ。

 

「なぁ、結局あの媚薬は本物だったのか?」

「さて、どうだろうなぁ。詳しい事は姉ちゃんにでも分析してもらうとするか」

「おい、クオンを巻き込むなよ」

 

 藪をつついてヘビを出す事になりかねない。ハクの忠告にウコンは歯を見せて笑った。

 

「分かってるさ。しかし、本当にアンちゃんは媚薬を飲んでないのか?」

「なんでだ?」

「いや、さっきのアレがな」

 

 ウコンは、言い難そうに口ごもった。

 

「結構、感じてたみたいだからなぁ」

「キシャーッ!!」

 

 ネコネばりの威嚇の声を上げたハクは、ウコンの背中を蹴り飛ばす。しかし、威力はたいしたことがなかったようだ。

 

「ハハ。冗談だって」

 

 すぐに体勢を立て直したウコンは、囲炉裏の始末を済ませると、部屋を出るように促した。ハクが小屋を出ると、ウコンは小屋の入り口に挿してあった、提灯の柄を抜いていた。

 

「いつの間に、提灯なんて用意してたんだ?」

「多分、気の利く隠密が用意してくれたんだろうさ」

 

 聞くところによると、天井裏に隠れていたのは、例のハクの護衛を務めた隠密らしかった。

 

「ちょっと待て」

 

 そこまで聞いて、ハクは青ざめた。ウコンの手下たちが去った後も、その隠密がどこかに潜んでいたとしたら。

 

「あー」

 

 ハクの言いたい事に気付いたウコンは、バツが悪そうに頭を掻いた。

 

「もしかしたら、見られてたかもしれねぇなぁ。すっかり忘れてたぜ」

「ちょ、ウコンさん!?」

「気にすんな。あいつは姉の事にしか興味の無い男だ。他言するような事はあるまいよ」

 

 どうやらその男の事を信頼しているらしい。ハクは、複雑な気分でウコンの後をついて雑木林を抜けた。

 

 

 一刻ほど歩かされて、白楼閣へと着いた頃には、ハクはぐったりとしていた。

 都はムダに広い。それを痛感した一日だった。

 白楼閣の入り口には、客を迎え入れるための明かりが、そこかしこに点っている。その明かりを背に、二人は白楼閣の門の手前で立ち止まった。ウコンの手にしていた提灯の灯りは既に消えていた。

 

「今日はご苦労だったな、アンちゃん」

「本当にな。今日はぐっすり眠れそうだ」

 

 主に、体力の限界で。

 ウコンは笑うと、懐から小袋を取り出した。

 

「今日の手間賃を渡しておくぜ。またオシュトルからきっちりとした報酬は渡すつもりだが」

「そうか。わかった」

 手のひらに、金の重みを感じると同時に、その手がウコンへと引き寄せられる。不意を突かれたハクは、為すすべなくウコンの懐に収まった。小袋だけはしっかりと握り締めている。それだけは己を褒めてやりたかった。

 

「ウコン?」

「なんか、名残惜しくってねェ」

 

 しかし、程なくしてウコンはハクを解放した。彼の口元にはいつもの笑みが浮かんでいる。

 

「じゃ、またな」

「ああ。また」

 

 片手を上げて、ウコンを見送る。ハクは、闇の中へ紛れていこうとするその背中を、ざわついた気持ちで見つめていた。

(なにか、忘れて無いだろうか)

 先日の飲み屋街での出来事を思い出す。あの時、不意をつかれたハクは、ウコンに何をされたんだったか。

 それを思い出したハクは、唐突にウコンの背中を追いかけた。彼が振り返る前にその背中を捕まえた。

 

「ウコン!」

「え?」

 

 その顔が驚きに変わるのを、ハクは見た。僅かに背伸びして触れた唇。少しカサついた感触がハクの唇を掠めた。

 

「アンちゃん……?」

「この間、お前がしたことのお返しだよ」

 

 さすがに額までは届かなかったが。

 してやったりと笑ったハクに、眉尻を下げてウコンも笑った。

 

「敵わないねェ、アンちゃんには」

「じゃあな、ウコン」

「ああ、おやすみアンちゃん」

 

 再び別れの挨拶を交わし、それぞれの住処への道を歩く。

 ハクは、白楼閣の入り口でもう一度振り返った。しかし、ウコンの姿は闇の中へと消えてしまっていた。

(名残惜しいのは、あいつじゃなくって、自分の方だったのか)

 自嘲するような笑みを浮かべ、ハクは白楼閣の玄関をくぐる。そこには、尻尾をゆらゆらとさせながら、引きつった笑顔で出迎えるクオンの姿があった。

 

「た……ただいま、クオン」

 

 なんか、嫌な予感がする。

 

「どこほっつき歩いてたのかな~?」

 

 するりと、彼女の尻尾が頭に巻きついた。

 

 

「イデデデデッ」

 

 

(ちゃんと説明しといてくれたんじゃなかったんですか、ウコンさんッ)

 心の中でそう叫んだハクは、気絶という名の睡眠で、翌朝を迎えるのだった。

 

 

 

 

 

 彼が、白楼閣へと入るのを、ウコンは建物の陰から見ていた。その姿が消えるのを確認した後、暗闇に立つ一人の影へ、ウコンは視線を向けた。

 

「ずっと、見てたのか?」

「ええ、まぁ。護衛が主要任務とのことでしたので。差し支えの無いところまでは」

 

 エヴェンクルガの忠義の深さには恐れ入る。

 ウコンは心の中で肩を竦めると、用意していた金子の入った袋を暗闇へと放り投げた。

 

「今はこれしか手持ちが無ぇんだ。残りは、オシュトル邸に改めて出向いた時に貰ってくれ」

 

「ええ。それで結構です」

 

 影が金を懐に仕舞うのを確認したウコンは、自分の屋敷に戻ろうと背中を向けた。しかし、影が呟いた言葉に、ふと足を止めた。

 

「あの方、貴方の弱みになりはしませんか?」

 

 弱み、か。

 先刻、ハクが口にした言葉を思い出した。彼が記憶を取り戻した時に、ヤマトに仇なすような事があればどうするかという話をした。

 

「お前さんは、誰かに恋をしたことがあるか?」

「はい?」

 

 矛先を向けられ、影は当惑した。

 

「私の話は関係ないと思いますが」

「人は、恋をするとそれが弱みになることはある。だが」

 

 ウコンは影に向けていつもの強気の笑みを向ける。

 

「自分を奮わせる力になることもある、それが分からないうちは、まだまだヒヨっこだねェ」

「……そうですか。勉強になりました」

 

 今度こそ、ウコンは振り返らなかった。影は、彼の姿が遠ざかるのをじっと見つめ、そして呟く。

 

 

「しかしそれは、諸刃の剣、というのではないでしょうかねぇ」

 

 

 人の恋路を邪魔するわけではないが、このヤマトの中枢を担う一人である男の恋。

 これを、他の八柱将の方に知れたらどうなることか……。

 

「秘密は守りますよ。一応はね」

 

 影は軽い足取りで建物の屋根へと飛び移ると、人知れず何処かへと紛れて消えた。