心地のいい場所 その3_1【ウコハク】

※pixiv版は1つにまとめましたが、長いので2つに分けてます

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 その日は、それほど間を置かずにやって来た。

 ウコンから告白を受け、ハクがそれに応えたあの日。

 あの日からハクの中で何かが劇的に変わるのかと思ったが、そうでもなかった。

 

「ハクー。私達は素材探しに行って来るから、お留守番お願いするかな」

「ほいほいっと、いってらっしゃい」

 

 クオンはそう言って女子達を伴って出て行った。最近特にお菓子作りの材料を、ルルティエや、ネコネ、アトゥイ達と共に採りに行っている。

 よほど『ルル』や『しゅう』の事が気に入ったようである。クオンは個人的に薬草なども採りに行っているようだが。

 ハクはというと、筆を手に文机に置かれた書冊と紙とを交互ににらめっこ中だった。

 

「この字は、こう……っと」

 

 読みに関しては、我ながら上達したと思っているが、書く事に関しては、読む事以上に難しい。手がその文字の流れを覚えないと、ミミズがのたうちまわったような文字になってしまう。

 数字は、習うまでもなく読み解けたのに、文字に関しては読めなかったのは何故なのだろう。

(数字は、自分が元いた世界と同じだった…ということか?)

 この場所が、元々住んでいた世界なのかすらわからない。だから、己が元々この世界の住人ではなかったという仮定で、そう結論付けた。

 

「そして、読めるようになったらなったで、面倒な仕事が増えた気がするのは気のせいだろうか」

 

 ここ最近、クオンから仕事の完了報告を、文書でオシュトルに送るようにと言いつけられている。元々いつ屋敷にいるのかも分からない忙しい男なので、文書をしたためるのは至極真っ当といえるが、ハクが関わっていない案件の報告ですら回ってくるのだからタチが悪い。

 恐らく、多分、きっと、ハクが字の練習をしているのを汲んでの依頼だとは思うが。

 

「そうでなきゃやってられん!」

「何がやってられねぇんだい?」

「うひょいッ!」

 

 独り言のつもりだったのだが、思わぬ方向から声が聞こえてきて、ハクは筆を放り投げた。

 

「び、びっくりするじゃねぇかッ。心臓が止まったらどうするんだ」

 

 ハクは背後を振り返った。いつの間に部屋に入ってきていたのだろうか。ウコンが身を屈めて文机の文字を見つめていた。その手には、先ほどハクが放り投げた筆が握られている。

 

「いやね、アンちゃんが真剣に字を書いてるもんだから、声を掛けるのも悪いと思ってな」

「背後に立つ方がよっぽど悪いわッ」

 

 ウコンは、硯に筆を戻すと、書きかけの紙に目を通した。

 

「いつものオシュトルへの依頼完了報告か。アンちゃんの字もなかなか見られるようになったんじゃないかい?」

「それは、前までは読めるもんじゃなかったって事か」

「内容はなんとなくわかったがな」

「いいんですー。これはお前にじゃなくて、オシュトルに宛てて書いてるもんだからな」

「これは、手厳しいねぇ」

 

 ウコンは、そんな嫌味にも動じない風に笑った。

 

「そのオシュトルの旦那から、アンちゃんへの言付けをあずかってるんだがなぁ」

「オシュトルから? 何だ?」

「それは、直接聞いて確かめてもらわねぇと」

「何故、今聞いちゃならんのだ」

 

 実際、オシュトルから聞いても、ウコンから聞いても、話の内容が変わるわけでもあるまい。

 

「人目があるからじゃないか?」

 

 ウコンは、人差し指を唇の前に立てた。ハクはあたりを見回す。パタパタと廊下を通り過ぎる女子衆の足音が微かにだが聞こえた。

 人払いしているわけではないので、この場所で話をすれば誰の耳に入ってもおかしくないのは確かだが。

 

「これは、こないだアンちゃんに話しそびれた内容にも関係してくる話だ。聞かない手は無いと思うがねぇ」

「いや、自分はあんまり興味がないんだが」

 

 むしろ、何か厄介事に巻き込まれそうな気がしてならない。

 

「つれないねぇ、アンちゃんは」

 

 ウコンは立てていた人差し指を、ハクの頬にツンツンと突きつけた。

 

「あの晩できなかった事、今ここでシてもいいんだぜ?」

「うぬっ……」

 

 指を唇に押し付けられた。

 

「俺とアンちゃんの仲だ。かまわねぇだろ?」

「待て、人目があるって言ったのお前だろ」

 

 ウコンの指をどかして、ハクは胡坐の上に頬杖をついた。

 

「わかった。オシュトル邸まで行けばいいんだろ? で、いつだ」

「夕刻に。時間は任せるってよ」

 

 話がまとまると、ウコンはあっさりと身を引いた。もっと粘ってくるかと思ったが、意外だった。

 

「くれぐれも、アンちゃん一人で来るようにとの事だ。特に、嬢ちゃん達向きの話じゃねぇからってさ」

「わかったよ」

 

 確かに、色町に関係する話ならば、クオン達には不向きな話だろう。

 ハクが頷くと、満足したかのようにカラリと笑う。

 

「おっと、これも預かってかないとな」

 

 ウコンは書きかけの依頼完了報告を指差して言った。

 

「ついでだから持って行ってやるよ。書いちまいな」

「ああ、そうか。助かる」

 

 言われて、ハクは最後の署名を書き上げた。墨が乾いたのを確認して、懐に入るように折りたたむ。

 

「じゃ、確かに渡したぜ」

「ああ、まかせときな」

 

 ウコンに手渡す時、手の甲に彼の指が触れた。己よりも固くてがっしりとした指が、名残を惜しむかのように指先をなぞり、文書を掴んだ。

 

「じゃあな、アンちゃん」

「ああ、気をつけろよ」

 

 格子扉を閉められるまで、ハクはじっとウコンの背中を見つめていた。無事に彼が去っていくと、つめていた息を吐き出した。

 

「はぁ~何なんだ、あいつは」

 

 ぐったりと文机に突っ伏した。まるで嵐が来たかのようだった。オシュトルが凪だとすれば、ウコンは荒波と言ったほうがふさわしいだろう。散々に心をかき回して去ってゆく。

 

「オシュトルか……」

 

 ハクは、久しくオシュトルとして彼とは会っていなかった事に気がついた。もちろん、ウコンに告白されてからも。

 

「ウコンとしては会ってるんだがなぁ」

 

 同一人物なのに、久々に会うとなると少し緊張してきた。

(オシュトルとウコン。気持ちは同じなのだろうか)

 

 

 夕刻、オシュトル邸に着いたハクは、門番に挨拶をして門をくぐった。

 オシュトルの屋敷は、外観はものものしいのだが、一歩中に入るとまるで飾り気が無い。そのため薄暗くなってもあたりを照らすための灯篭がなかった。見えるのは屋敷の入り口にある小さな提灯のみ。普通、広い庭には、盆栽や庭木など、とりどりのものが置かれているのを想像するものだが、それすらもない。

 

「質素を通り越してなにもない」

 と、常々思っている。

 ハクは慣れた足取りでオシュトルの執務室へと向かった。障子戸の向こうから、チロチロと灯りが漏れている。

 

「オシュトル。自分だが、入ってもいいか?」

「ハク殿か。どうぞ、入られよ」

 

 ウコンとは違う、静謐な声。ハクは扉に手をかけるのを躊躇った。

(どんな顔して会えばいいんだろう)

 いつもならば、躊躇いもなく扉を開くのだが、この先に座っているオシュトルの表情が想像できない。

(オシュトルとウコンは同一人物、だから、気にする事じゃない。よしッ)

 ハクは自分にそう言い聞かせると、障子を開けた。

 

「しつれいしまーす」

 

 何故か小声でその中へ足を踏み込む。板張りの執務室の真ん中に、オシュトルの机が置かれている。周りの棚には書簡が積み上げられ、己だったらすぐにでも逃げ出したくなるであろう空間だった。

 

「よく参られた。ハク殿」

「元気そうだな、オシュトル」

 

(先刻会っておいて、元気そうも何もないけど)

 心の中で己に突っ込みを入れつつ、ハクは机の前に敷かれた円座に腰を降ろした。

 ウコンとは違い、オシュトルは落ち着きを全身に纏ったような男だ。机に肘をつき手の指を組むと、仮面の向こうからじっとこちらを見つめている。

 

「な、ナンダヨ」

「いや、久しくそなたとは会っていなかったと思ってな」

 

 たじろぐハクに、意味ありげな微笑を送ると、あらかじめ用意していたのか、机の横に設えた茶卓の急須から、二人分の茶を注いで片方を差し出した。

 

「じゃ、ありがたく」

 

 これが酒ならばもっとよかったんだが、この部屋でそれを提供されるとは思ってもいない。

 ハクが一口茶をすするのを待って、オシュトルは口を開いた。

 

「先日、色町付近でウコンと出会った件、覚えていよう?」

「ああ……あれか」

 

 その日の事を思い出すと、用件とは別の事が思い出されて、ハクは顔に出ないようにするのに苦心しなければならなかった。

 平静を装いつつ、ハクは続ける。

 

「あの時、ウコンは何かを探っていたのか?」

「ああ、そうだ」

 

 オシュトルは頷いた。

 

「彼が色町へ赴いたのには訳があってな。その日より少し前になるが、このような投書があったのだ」

 

 そう言うと、オシュトルは一通の手紙を差し出した。湯飲みを床に置いたハクは、それを受け取って広げてみる。手紙のような体をなしていない、ただ紙の真ん中に一文が書かれているだけだった。

 

 

 ――色町界隈で、危険な媚薬の流通あり。

 

 

「びやく?」

 それ以上のことは何も書かれていない。首を傾げたハクに、オシュトルは口を開く。

 

「媚薬っていうのは……」

「マテ。言葉の意味なら知ってる」

 

 まじめな顔で説明しようとしていたオシュトルを止める。その薬の種類は様々だが、男が女を、女が男とそれとなくいい雰囲気になったときに、体を高揚させる作用のあるものだ。

 媚薬は一般に売りに出されているものは、効き目の薄いものが多く、副作用もない安全なものだという。

 

「この、危険なってのが引っ掛かるな」

 

 媚薬の使用は特に禁止されてはいないはずだ。ハクがそう言うと、オシュトルも同じことを考えていたのだろう。

 

「左様。ウコンは例の界隈では顔が利く。その為、店先を聞いて回っていたようだ」

「ホントに店先だけなのか?」

「ほほぅ。彼の言に疑いがあると」

 

 オシュトルは、口許に笑みを浮かべながら、ハクを見つめている。その視線は、どこか柔らかい。と、ハクは感じた。

 

「疑いがある訳じゃないが、そんな所に出入りするなら、女の子に袖を引かれても仕方ないと思うがな」

 

 むしろ、ウコンならば、引く手あまただろう。

 

「彼は、そういった手をあしらうのに慣れているとも言っていた。そこは上手くやっているのだろう」

「ふーん」

 

 自分で言ってりゃ世話ないんだけどな。

 ハクは、湯飲みを取って口に運ぶ。

 

「それに、ウコンには想い人がいるとのことだ。よほどの事でなければ、心は動かされんだろうよ」

「ぶほっっ」

 

 すっかり油断していたハクは、口に含んだ茶を盛大に吹き出した。オシュトルとの距離はあったから、大事な書簡類は無事だろうが、目の前の床に茶の飛沫が飛んでいる。

 

「す、すまん」

「いや、大事ない」

 

 懐から手拭いを取り出してささっと拭き取る。恐る恐る顔を上げると、オシュトルは変わりなく微笑を浮かべていた。

(自分はよもや、揶揄われているのではないだろうか)

 疑念の目で、オシュトルを見つめてみたが、動じる様子は無い。

 

「……続けてくれ、オシュトル」

「そうだな」

 

 何事もなかったかのように、オシュトルは話を戻した。

 

「ウコンが訪れた店子の話によると、『通常販売されている物よりも効果の高い薬』の噂は確かにあるとの事だった」

「ただ、どこで売られているのか分からないってところか」

「そういうことだ」

 

 オシュトルの言葉を引き継ぐ形で続けたハクに、彼は頷いた。そして、机の引き出しから一枚の地図のようなものを取り出した。

 

「ウコンが先日訪れたのは、色町のこの界隈」

 

 ハクがウコンを見つけた付近を指差して、オシュトルは言う。

 

「この奥の通りを隔てた所に、もう一つ趣向の違った店が並んでいるのだが……」

 

 オシュトルにしては、どこか歯切れの悪い説明だった。

 

「どうした? そこに何かあるのか?」

「うむ。某はその界隈の店に何か手掛かりがあると睨んでいる」

「そうなのか。で、ウコンはその店を当たってみたのか?」

「いや……それが、なかなか手ごわい場所でな」

 

 何故か、視線をそらして言葉を濁す。

 

「ウコンでも手に余るなら、自分だって無理だろ。無理無理」

 

 なんとなく嫌な予感がする。

 ハクは、できれば関わりあいになりたくない気分になってきた。

 

「そう言うな、ハク殿。給金は弾ませてもらうゆえ」

 

 懐から、金子の入った小袋を取り出し机に置く。「これは手付金だ」

 

「ほほぅ」

 

 見た目の質量からいって、己の小遣いより確実に多いだろう。ハクの気持ちは、揺れに揺れた。

 

「オシュトル、一つだけ訊いてもいいか?」

「某に答えられる事なら」

「その店ってのはヤバい店なのか?」

「……そういうわけではないが」

 

 オシュトルは、再び机の上に肘をつき指を組むと、ハクをじっと見つめた。あまりの仰々しさに、ハクは生唾を飲み込んだ。

 

「実はな……」

 

 彼は重々しく、口を開いた。

「その店は男茶屋なのだ」

 

 

 ***

 

 そろそろ夕飯かと思われた頃、クオン達がようやく帰ってきた。彼女はハクの部屋に立ち寄ると、ハクが布団の上に突っ伏しているのを見つけ眉を寄せた。

 

「ただいま~。あれ、ハク、どうしたの? 疲れているようだけど」

「いんや、何も」

 

 本当は疲れ果てて、指一本動かしたくない。

 体がどうとかいう問題ではなく、精神的な問題だった。

(オシュトルのやつ、なんで自分をあんな所に……)

 ハクは、苦い顔で先程までの出来事を思い返した。

 

 オシュトル邸に出向いてから四半刻ほど。ハクは色町の一角に足を向けていた。

 女が男の袖を引く界隈とは雰囲気が異なり、オシュトルが指定した場所は、男が男の袖を引く店が立ち並ぶ場所だった。そういう商売があることは知識としては持ち合わせてはいたが、見るのは初めてである。

(ルルティエの持っている書冊で、なんとなくわかってはいるのだが)

 皇女やムネチカまでもが虜になったあの書冊。男同士の『友情』にしては、濃い描写がありはしなかっただろうか。

 

「現実は、そんなもんじゃない」

 

 誰へとなく呟いた。

 確かに、見目のいい少年などもいることはいるが、その中には、どう見てもガチな体型の男共もいるわけで。

(自分の貞操の危機、じゃないだろうか)

 オシュトルは、ハクの事を影で見守る役を誰かに頼んだらしいが、その姿はどこにも見えなかった。

 恐らく、どこかに身を潜めているに違いない。何かあれば、必ず助けてくれる。そう自分に言い聞かせることにした。

 詳しいことは、できれば思い出したくも無い。

(収穫がなかったわけじゃなかった)

 『闇で売られている媚薬』の話は、やはりこの界隈でも囁かれる程にはなっていた。

 

 

 いくつかの店先を冷やかし、ようやく一軒の【茶屋】と書かれた店にハクは足を踏み入れた。茶を出してくるのかと思いきや、茶は一向に出てくる気配は無い。玄関先で、女将と思しき女と一対一になったハクは、世間話に紛れて、媚薬の話を持ち出した。

 

「どうも、この界隈で良く効くアッチの薬があるって聞いたんだが」

「ああ。たまに聞かれるが、残念ながらウチでは扱って無いねぇ」

「そうなのか。友人からここにあるっていう話を聞いたんだがなぁ」

 

 あからさまに落胆してみせる。もちろんその話は嘘っぱちである。ここに情報は無いと見たハクは、玄関先から腰を上げた。

 

「別を探してみる。済まないな女将」

 

 すると、老齢の女将は客を逃すまいとしたのか、ハクの袖を引っ張った。

 

「待ちなよお客さん。此処には無いが、もしかしたらという店を知っているよ」

「本当か?」

 

(釣れたか?)

 ハクは心中で拳を握ると、さも面倒くさそうに再び腰を下ろした。

 

「で、どこだ? それは」

「噂だから、確かじゃあないんだけどね」

 

 老齢の女は、声を潜めて言った。そして、ハクへ無言で手を差し出してくる。これ以上は有料らしい。ハクが、差し出された手に支度金として受け取っていた銭を握らせると、ヒヒっと笑って口を吊り上げる。

 

「そこの斜向かいの店で、一月ほど前だったか。客を取っていた子が、最中に泡を噴いて死んだとか」

「泡を?」

「ただ、店はそのことをお上に届出てはいないようだねぇ。よほど知られたくない事でもあったんだろうよ」

「ふーん」

 

 だが、それが媚薬がらみだったのか、それは今の話ではなんとも判断のつきようもなかった。

(ここまでか)

 ハクは、これ以上の情報はないと見て、店を出ようとした。しかし、女将は情報だけで終わる女ではなかった。

 

「あら、お客さん。このまま手ぶらで帰るつもりかい? 折角なんだから、遊んで行きなよ」

「いや、自分は……」

「ウチの子たちは、そんな媚薬に頼らずとも、お客さんを満足させる技量は持っておりますよ」

「そういう問題では」

 

 たじろぐハクに、女将はこれでもかと浴びせかける。

 

「そこにいる子たちを見てやっておくんなし、お気に入りの子がいるんじゃないですかネェ」

 

 ハクは、ミシミシと音を立てそうな動作で、女将の視線の先へと首をまわした。客見せの部屋に押し込まれている下は少年、上は青年くらいまでの男たちが、さも自分を選んでくれと言わんばかりに、流し目を向けてくる。

 それだけで、ハクは射すくめられたように身動きが取れなくなった。

(早く、出たい)

 頭の中には、それしかない。

 そんなハクの表情から、女将は何かを読み取ったのか、「ああ、そういうことかい」と一人で納得したようだった。

 

「お客さん。もしや、『太刀』をお探しで?」

「タ……、は?」

 

 言葉の意味を理解できなくて、ハクは女将に聞き返した。彼女は口元に袖を当てると、乾いた笑い声を発した。

 

「どうも、そうじゃないかと思ったんだ。お客さんは挿れる方じゃなく、挿れられる方じゃないかってね」

「はぁぁ???」

 

 思わず、気の抜けた声を出してしまったハクは、慌てて口を塞いだ。女将はそんな態度を気にかける風もなく続ける。

 

「生憎うちの店には『鞘』しか置いておりませんで」

 

 太刀と鞘……。見つめめ合う、男と男……。

 その隠語の意味をなんとなく理解したハクは、思わず顔の前で手をブンブンと振り回した。

 

「い、いや、いいんだ。今日は手持ちが少ないので、改めて来るとしよう!」

 

 颯爽と立ち上がって、ハクは店を飛び出す。

 女将が店先に出てくる前に、素早く店と店の間の細い路地に滑り込んだ。

 

「はぁ……心臓がいくらあっても足りんぞ」

 

 足は伸ばせないので、仕方なくしゃがみこむ。顔がものすごく熱くなっているのを己でも感じた。

 というのも、先ほどの女将の言葉で思い浮かべたものがまずかった。

(よりにもよって、なんでオシュトルのことなんか……)

 恐らく、太刀という言葉で連想されてしまっただけに違いない。ウコンではなく、オシュトルの姿を思い浮かべてしまったのは。

(いやいやいや、ウコンだったとしても、ないだろ!)

 一人ブルブルと首を振る。確かに、ウコンの事は好きだが、今のところ「そういう」雰囲気はちょっと想像できない。オシュトルなら尚更だ。

 ハクは一度肺の奥から息を吐き出すと、パチンと頬を両手で挟んだ。

 

「それよりも、仕事に集中!」

 

 ゆっくりとした動作で立ち上がると、先ほど女将が言っていた店を路地の隙間から確認する。外観は、入り口に暖簾と、その横に客見せの為の格子が付けられた部屋がある。その造りは先ほどの店と殆ど変わりない。

(どうする? あの店に入ったとしても、人死にを隠してるくらいだから何かが出てくるとは限らないし)

 そもそも、その少年(?)が自分でその薬を手に入れたのか、『客』から渡されたものなのか、わからない。

 ハクが考えあぐねていた所に、丁度その店の前で立ち止まった男が居た。行商人の格好をして、背中になにやら箱を背負っている。小さな引き出しがいくつもついた箱。どこかで見た事があるような気がした。

 ハクが思い出す前に、男は背負子を降ろしながら、店へと入っていく。思わずハクはその店の入り口の壁に張り付いた。耳を澄ませると、男と店子が話をしているようだった。

 

「今日はいつもの強壮剤と、丸薬をお持ちしました」

「いつもすまないねぇ」

「他に、御用はありますか?」

「そうだ。うちのコたちが、あんたの所の媚薬を大層気に入ってるんだが、いつ入荷するんだい?」

 

 媚薬!?

 ハクはその言葉に、一層耳に神経を集中させた。もしかして、この男が危険な媚薬を流通させている男だろうか。

 

「ははぁ、あの薬は最近特に人気がありやして。もうすぐお持ちできると思いますよ」

「じゃあ、今度来る時に頼むよ」

「へい。ただ、薬を使うのは自己責任でお願いしやす」

 

 その言葉に、店子は気落ちした声で答える。

 

「わかってるサ。あの子は心の臓が弱かった。そういう子には使わせないようにする」

 

(当たりか)

 ジャラジャラと金子の受け渡しが行われている間に、ハクはその店から男が出てくるのを身を潜めて待った。

 あの箱は薬箱だと、ハクは思い至った。そういえば、クオンも似たようなのを持っていた気がする。それで見覚えがあったのだ。

 

「毎度~」

 

 背中に薬箱を背負った男が店から出てきた。ハクは十分にその距離を開けて、男の背中を追った。

 

 薬売りらしき男は、その後いくつかの店を回り、そして色街を抜けた。薄暗い空の下を、ハクは辛抱強くその後についていった。だが、

 

「――見失った」

 

 ゼェゼェと息を切らして、ハクは道端に立ち止まった。根本的に己と一般人とでは体力が違うのを忘れていた。思った以上に男は早足で、ハクは殆ど小走りだったと言っても過言では無い。

 辺りを歩いてみたが、その姿を見つける事はできなかった。

 

「くそ、日を改めるしかないか」

 

 しかし、その為に、またあの場所へ踏み込まねばならないとすれば、気の重い話だ。

 

「ひとまず今日の成果だけでも、あいつに報告しに行こう」

 

 諦めてオシュトル邸へと向かおうとした時、背後から突然腕を掴まれた。

 

「……っ!?」

 

 そのままハクは狭い路地へと引きずられていく。右へ左へと曲がった後、狭い路地のゴミ箱の陰に押し込まれて、ようやくハクは顔を上げた。

 

「お前……」

「しッ」

 

 暗がりの中、見知った顔が鋭い眼光をゴミ箱の向こう側へと向けている。その目つきに、ハクはドキリとした。

(ウコン、なんでここに)

 彼の耳がピクリと動く。何かを感じ取ったのだろうか、さらにハクの頭を下に下げさせ、ゴミ箱から頭が見えないようにした。

 ぼうっと暗闇の中に灯りが揺れている。それが左右に揺れたかと思うと、ふっと消えた。

 遠くで舌打ちをする音が聞こえ、地面を踏む足音が遠ざかっていった。

 ようやくウコンの腕の力が緩むと、ハクは顔を上げた。彼の表情からは、先ほどの鋭さは消えている。それを見て、ハクはようやくひと心地ついた気がした。

 

「どうしたんだ、ウコン。こんなところに」

 

 まるで、道端で出会った時のような台詞に、ウコンは困ったような笑みを向けた。

 

「アンちゃん、気付いてなかったのかい? 尾行られてたのを」

「自分が?」

 

 寝耳に水だった。尾行していたのは、己の方だったはずなのに。

 

「やれやれ、俺が通りかかってよかったな。下手したら、明日の朝日は拝めなかったかもしれなかったんだぜ」

「脅かすなよ」

 

 冗談に聞こえないその言葉に、ハクは己の腕を抱いた。

 

「危険があったら、誰かが助けてくれるんじゃなかったのか?」

 

 誰かは、姿を見ていないので知らないが。

 そう言うハクに、ウコンは「そうだったんだがな」と済まなそうに言った。

 

「その隠密が、アンちゃんが逃した男を追っていったから、さっきまでののアンちゃんは一人だったのさ」

「ナニッ」

 

 それを聞いて、背筋が凍る。

 

「い、いつから居なくなってたんだよ」

「それは知らねぇが、アンちゃんが見失う前、じゃないか?」

 

 思わず倒れこみそうになる体を、ウコンが支えてくれた。

 

「いいじゃねェか。俺が来てやったんだから」

「間に合わなかったら、化けて出てやるところだ」

「そんな事にはならねェよ。俺の目が黒いうちはな」

 

 ウコンの腕に力がこもる。ハクは、ハっと顔を上げた。見つめ合う二人。まるで、先刻想像した絵姿のような……。

 

「は、離っ」

「まだ、近くに居るかもしれねェ。静かにしなよ、アンちゃん」

 

 ウコンはポンポンとあやすようにハクの頭を叩くと、自分の胸の中にハクを抱きこんだ。そして、耳元で囁く。

 

「なァ。一体何を想像したんだ? アンちゃん」

「な、何って……」

 

 ハクは、顔を上げる事ができなかった。己に惚れていると言った男に、自分が想像した姿を話す事など。

 

「何も想像なんか、してない」

 

 一呼吸ついて、ハクは顔を上げた。恐らく顔には出ていないはずだった。その事は記憶の片隅に追いやって、平静を装う。

 

「ところで、お前はなんで此処にいるんだ?」

「俺は、ちょっと近くに用があってな」

 

 顔馴染みの飴屋があるんだと言った。

 

「飴屋? あぁ、アレか」

 

 いつもギギリ飴を寄越してくる親父の事だろう。そんな顔馴染みがいたとは知らなかった。

 

「ネコネがあの飴をたいそう気に入っているようでな」

 

 懐から、動物の細工がしてある飴を取り出した。

 

「土産にと思ってな」

「見てくれはともかく、味はうまいからな」

「そんな所に、アンちゃんの後を尾行てる輩が居たもんだから、ちっと追いかけてきたのさ」

「そうか、助かった。ありがとうな、ウコン」

 

 素直に感謝の意を述べたハクに、ウコンはニカッと笑ってみせる。

 

「どうせなら、態度で示してもらっても構わねェが」

「態度って?」

「たとえば、助けた礼に接吻してくれるとか」

「誰がするか」

 

 考える間もなく断ったハクに、ウコンは苦笑した。

 

「何でぇ、俺の事好きだって言ってくれたのは嘘だったのかい?」

「嘘じゃないが……」

 

 ハクは、口ごもる。

 

「その、恥ずかしいだろ。こんなとこで」

 

 もしかしたら、初めてかもしれないのだ。それをあっさりとくれてやるのもどうかと思う。

 ウコンは、やれやれと肩を竦めると、ハクの体に回していた腕を解いた。そして、ハクの正面の壁に背を預けると、口を開く。

 

「で、首尾はどうだい?」

「ああ、あの薬のことか」

 

 ハクは、男茶屋での出来事を要点だけ伝えた。その行間にある諸々の出来事は除いて。ウコンはじっと腕を組んだまま話を聞いていた。

 

「自分が追いかけていたあの男が仲介役なんだと思う」

「なるほど、そいつは調べてみる価値があるだろう」

 

 ウコンはそう言って口許に微笑を浮かべる。ハクは、そんな彼にひとつの疑問を投げ掛ける。

 

「ところで、自分の護衛についていたっていう隠密は誰なんだ?」

「それは、契約上言えない事になってるんでね」

 

 ウコンは曖昧に濁すと、腕組を解き、ハクの背中を押した。

 

「手間かけさせて悪かったな。送るぜ」

「これで、終わりか?」

 

 まだ、可能性を述べただけで、核心までたどり着いていない。そんなハクの表情を悟ったのか、ウコンは首を振った。

 

「アンちゃんは、これ以上関わっちゃならねェよ。なにしろ、どこに尾行してたヤツが潜んでるかも知れないんだぜ」

「少しくらいなら、自分も戦える」

 

 まだまだひよっ子だが。

 ハクの言葉に、ウコンは意外そうに目を見開いた。

 

「てっきり、アンちゃんはこれ幸いと白楼閣に身を隠すのかと思っていたぜ」

「それ、まるで自分が引きこもりみたいに聞こえるから、やめてくれる?」

 

 出来れば、働きたくない。それは否定できないが。それについてはウコンは笑っただけだった。

 大通りに出る直前、暗がりの中で、ウコンはもう一度ハクを抱き寄せた。彼の呼吸がハクの前髪を揺らす。

 

「今はまだ、動く時じゃねぇ。必要な時はオシュトルがアンちゃんを呼ぶだろう。その時までは動くんじゃないぜ」

「そうか、わかった」

 

 その言葉に嘘は無いのだろう。ハクが頷くと、ウコンはいつも通りの笑顔に戻った。

 

「さて、じゃあ白楼閣まで送るぜ。丁度ネコネも連れて帰りたいしな」

 

 

 そして、今に至る。

 床の上でゴロゴロ転がりながら、ハクふとした疑問をクオンへと向けた。

 

「なぁ、クオン」

「どうしたの?」

「媚薬って、そう簡単に作れるもんなのか?」

「!?」

 

 その言葉に、尻尾をビクリとさせたクオンは、まるで蔑むような瞳でこちらを睨んだ。

 

「そんなもの、どうするつもり?」

 

 何故か、近づきがたい気を発している。床に正座したハクは、繕うように言った。

 

「自分が使うんじゃないさ。ホラ、アイツが……」

「あいつ?」

「ほら、えっと……マロロ」

 

 すまん、マロロ。

 咄嗟に思いつく名前がそれしかなかった。ハクが言った名前に胡散臭そうに目を据えたクオンは、それでもちゃんと答えようとしてくれた。

 

「そうだね、市場に出回っているものくらいなら私でも材料があれば作れるかな」

「そうなのか」

「ただ、そういうのってそれほど効果のないものだから。飲む事でその気になっちゃうっていうか」

「偽薬ってことか」

 

 薬を飲んだということで、効果があると自分を騙しているわけだ。

 

「そうだね。もっとキツいものは、やっぱり色々と副作用があるし、配合されている材料によっては人体に影響を及ぼすものもあるみたいだから、止めておいたほうがいいかな」

「効果はあるんだな?」

「んー、多分? わ、私は見た事がないからっ」

 

何故か顔を赤らめながら否定された。薬に詳しいクオンに見解を聞きたかっただけなのだが。

 

「そうか。じゃあ、マロロにはどこかで飴でも買って渡しておくか」

「……本気で言ってたの?」

 

 ハクがそう答えたのを、眉をひそめてクオンは呟いた。

 

 

 ***

 

 色町の一件から三日。ハクはいつも通り仕事という名の雑用を、クオン達とこなしていた。

(あれから、音沙汰なし……か)

 オシュトルから、例の件が片付けば連絡が来るだろうと思っていたのだが、彼からは今のところ連絡はなかった。

 

「あの薬売りは違ったってことか?」

 

 溝の泥をかき集めながら、あの日の事を思い返す。やはりあの男は仲介人で、元締めがどこかに居る、というのが妥当だろう。その元締めに繋がる線は、己にはわかりようもない。

 

「しっかし、どうして……こう、この街は溝が多いんだっ」

 

 毎回の溝さらいで、ぎっくり腰になりかねないくらいの量の泥が出るのだ。どこかから流れ込んできているのではないか。

 そんな事を考えながら、ある程度固まった泥を櫂で持ち上げる。そして、プルプルと震える腕を、近くに広げてある土嚢袋に向ける。

 

「よいしょーっと」

 

 水気を含んだ泥を袋に流し込んだ。

 

「精が出ますな」

 

 突然の声に、ハクは驚いて天を仰いだ。側溝の中に居るハクを、地上から見下ろしている人物がいた。

 

「いや、まぁ仕事だからなぁ」

 

 真上から太陽が照らしているせいで、その人物が男だということ以外は逆光でわからなかった。

 

「旦那、ちょっと手を置いて、握り飯でも食いませんかい?」

「どうして、あんたが?」

 

 見たところ、面識のない男だと思う。ハクがそう訊くと、男はヒヒッと掠れた声で笑った。

 

「いやね、あっしは近くに住んでるんですけどね。あんたさん達がこうやって溝を綺麗にしてくれて助かってるんでサ」

 

 ちょっとしたお礼です。と、男は言った。

 

「じゃあ、ひとつ貰おうか」

 

 丁度、腹も減ってきている。好意を無駄にするのは悪いだろう。

 ハクは、櫂を壁に立て掛けると、濡れた手拭いで手を拭いて、近くの梯子から地上に上がる。

 同じ地上に立ったハクは、改めて男の顔を見た。額に手拭いを巻いた細目の男だ。見た目は中年といったところだろうか。

 灰色に黒縞のカギ尻尾がユラユラと揺れる影を地面に落としている。

 

「茶も用意してますんで」

 両手に握り飯の包みと茶が入った木でできた水筒を持った男は、細い目をさらに細めて笑う。

 

「ありがたい。じゃあ頂くとするか」

 

 側溝に足を下ろして、ハクは地面に座る。男も握り飯を挟んで隣に座った。

 二つあった握り飯のうち、ひとつをハクが、もうひとつを男が手に取った。

 

「旦那は、いつもこんな仕事をしているんで?」

「そうだなぁ、最近は溝さらいやら、畑仕事の手伝いやらだな」

「へぇ、そりゃあありがたいことだ」

 

 男は握り飯を頬張りながら、そう言った。

 

「あんたは、近くに住んでるって言ったが、何か商売でもしてるのか?」

 

 ハクは握り飯を口に運びながら、辺りを見回した。ここは商人が多い地区で、この裏通りは人通りが少なかった。

 

「へい。近くの雑貨屋でさ」

 

 そう言った男は、ハクに水筒を差し出した。握り飯は、塩味が効いて旨かった。口の中に残った飯粒を茶で流し込む。その様子を見ながら、男は口を開いた。

 

「最近、この付近で怪しい男がうろついていましてね。迷惑しておるんですが、旦那、ご存じないですか?」

「怪しい男?」

 

 細目の男の右目がわずかに開いた。

 

「へぇ。何やら色町から薬屋の後を尾行けておったらしいのですが、ご存じないでしょうか?」

 

 薬屋……!

 ハクはハッと顔をあげた。途端、視界がグニャリと歪んだ。

(何だ、コレ)

 目の前の男の顔が二重、三重に見える。男はハクの顔を覗き込んだ。

 

「そうだ、この顔だ。あんた、薬屋を探って何をしようとしていたんだい?」

 

(この男、あの薬売りの仲間か……)

 ウカツだった。茶に眠り薬の類いのものが入っていたのだろう。まぶたが、ズンと重くなる。ハクはなんとか抗おうとしたが、どうにもならなかった。

 

「おやすみなさい、旦那」

 

 男はヒヒッと再び乾いた笑いを漏らした。その声を聞きながら、ハクは己の視界が閉じていくのを感じた。

 

 ――ウコン、すまん。

 

 心の中で、ハクは知らず彼の名を呼んでいた。