心地のいい場所 その2【ウコハク】

「ハクさん。じゃあ私はここで」

「おう、お疲れさーん」


 一緒に溝さらいの仕事をしていたキウルは、道具を片手に一足先に白楼閣へと帰っていった。それを見送ったハクは、日が落ち始めた空を見上げる。


「夜までには、まだ時間がある、か」


 折角外に出てきたのだ、このまま帰るというのも忍びない。部屋に居る時に外に出るのは面倒だが、一旦外に出てしまえば、ついでに出来る用事は済ませてしまいたいハクである。


「ちょっと一杯引っかけていくか」


 誰に言うでもなく一人呟いたハクは、帝都に来て以来、贔屓にしている居酒屋へと足を向けた。大通りを一本入った裏通りは、呑み屋街となっている。昼間は人通りが少ないが、夜になると酒好きで賑わいを見せる場所だ。


「ん?」


 そんな馴染みの店の手前まで来たとき、入り口で店主に何度も頭を下げている、見覚えのある後ろ姿を見つけた。


「マロじゃないか」


 普段あまり目にしない特徴的ないでたちだから、すぐにわかった。ハクの声に気付いたのか、尻尾がピンと逆立った。

(便利だな、あの尻尾)

 己には無い尻尾を見るのはもう慣れた。逆に、あの尻尾や耳で相手の感情が見えたりするのが面白かったりもする。マロロは感情が尻尾に出る性格だな、とハクは思った。

(まぁ、マロの場合は顔にもすぐ出るんだけどな)


「おおっハク殿~」


 店主に暇を告げたマロロは、ハクの姿を見つけると、途端に明るい顔に戻り、駆け寄ってきた。

 いつもの白塗りの顔が、今日は些か青ざめて見えるようだった。


「どうしたんだ? まだ呑んで帰るには早いだろうに」


 まだ、日が傾き始めたばかりだった。この時刻に酔って帰る客も居ないではないだろうが、マロロは位の高い貴族の下で働いていると聞く。そんなマロロが昼間から呑んでいるとは思えなかった。


「今日、ささやかながら臨時のお手当てがでたので、日頃のツケの支払いに来ていたでおじゃるよ」


 尻尾がシュンとうなだれた。手に持っている財布の中身はハクの持っているそれよりも軽そうだった。

 マロロの家は、父上の浪費癖のおかげで、マロロの給金が借金返済に充てられていると聞く。ウコンの配下達にまで同情されていたくらいなのだ、相当なものなのだろう。

(借金だけはしないようにしよう、絶対)

 己の小遣いもそれほど多くないので、他人事とは思えない。ハクは懐の小銭入れを握り締めて改めて心に誓った。

 それにしても、折角居酒屋に来たのに、呑んで帰れないマロロの姿を見ると、今から呑みに行こうとしている己の良心が少し痛む。


「もう帰るのか? マロ」

「そうでおじゃるなぁ。いかんせん手元不如意でおじゃるからして……」


 案の定、帰ろうとするマロロの肩を叩き、ハクは行きつけの呑み屋の方を指差す。


「一杯ぐらい奢るさ。ちょっと呑んで行かないか?」


 ハクの誘いに、マロロはパアッと顔を輝かせると、


「ハク殿~~ハク殿はマロの唯一無二の親友でおじゃ~~」


 涙を流しながら抱きついてきた。


「お、おいっ。くっつくな!」


 そんなマロロを腕で押しやりながら、ハクは居酒屋の扉を開けた。



「親父、燗酒一本とお猪口二つ。あと、何か酒菜を頼む」

「はいよっ」


 酒を待つ間、ハクは四人掛けの卓の差し向かいにマロロとついた。


「そういや、マロはどこの貴族に仕えてるんだ?」

「おじゃっ!」


 何の気なしに話を向けたのだが、マロロはビクリと体を竦ませると、長い袖で顔を覆った。


「そ、それは、  職務上差し支えがあるからして、ハク殿に教えることはできないでおじゃる」


 何か、言いたくないっていう雰囲気がひしひしと伝わってくるのだが。

 教えられないと言われると、余計に気になってしまうのは、人の性分だろうか。


「ふーん? でも、オシュトルは知ってるんだろ? お前がどこのお偉いさんに仕えているかって」


 ハクは以前、マロロが隠密の仲間になりたがっていたのを、ネコネが障りがあると止めていたのを思い出した。


「そうでおじゃる。まぁ、オシュトル殿にはマロが言わなくても、自然と伝わってしまうでおじゃるよ」

「そうなのか」


 ということは、朝廷に近しい者ということだろう。

(ま、自分にはどうでもいいことだが)

 気になるが、そういうゴタゴタには巻き込まれたくない。面倒だから。

 あっさりとハクはその話題から身を引いた。


「お待ち」


 話が途切れるのを待っていたかのように、燗酒と酒菜が卓に運ばれてくる。ハクとマロロはお互いのお猪口に酒を注ぐと、暫く無言で酒の味を楽しんだ。



「そういえば、ウコン殿にも、最近会えてないでおじゃるなぁ」


 盃を舐めながら、マロロがポツリと呟いた。


「一緒にギギリ討伐に出かけた時の事が懐かしいでおじゃる。あの時、ハク殿に出会っていなかったらどうなっていたことか」


 ハクが初めてマロロとウコンと出会ったのは、クオンに拾われて間もない頃だった。あの頃から考えると、今の己はこのヤマトの人たちに馴染んできてはいると思う。他の者達と違い、特徴的な耳と尻尾を持たないハクにも、人々は親切にしてくれる。自分自身が、記憶の無い己の事を胡散臭いと思っているのに、だ。

 目の前にいるマロロもその一人だ。


「ありがとな。マロ」


(その白塗りは相変わらず気になるが)

 心の声は胸の内にしまって、ハクは素直にそう述べた。


「礼を言うのはこちらの方でおじゃる。ハク殿には色々と世話をしていただいたでおじゃるからなぁ」

「あー」


(あれか、荷台でぶっ倒れてた時の事を言っているのか!)

 二日酔いのマロロと共に、当時、からっきし体力の無かったハクは、荷台に載せられてギギリ討伐へと向かった。あの時は、隣から酸っぱい匂いが漂ってくるわ、足は痛いわで大変だった。


「あの頃に戻りたい、そんな気分でおじゃる」


(自分はもうあの体験はしたくない)

 マロロはそう言ってため息をつき、ハクは心の中でそう呟いた。そんなハクの心の声は聞こえないマロロは、下唇をこれでもかというほど突き出し、悲壮な顔をした。白塗りも相まってどこか芝居がかったようにも見える。

 ハクは徳利を持ち上げると、マロロの方へと傾けた。


「まぁまぁ、そんなに悲観すんなよ」


 差し出されたお猪口に酒を注ぎながら、ハクは続ける。


「何も永遠に会えないわけじゃない。この帝都の中に自分達はいるんだからな。それに、今日も偶然会えただろ?」

「ハク殿ぉ」

「だーかーら、泣くなっての」


 卓越しに今にも抱きついてきそうなマロロの額を、箸の柄でグイグイと押しやった。



「しかし、ウコンだったら、ふらっとマロロの様子を見に来てもおかしくないだろうにな」


 オシュトルという身分など関係ない、ウコンとしてなら、マロロに接触しても問題はないはずだが。

 ふと浮かんだ疑問に、ハクは首を傾げる。


「本来のお役目が忙しくなったとは言っていたでおじゃるからして、ウコン殿として街に出る機会も少なくなったのでは?」

「そうか? その割りによく白楼閣に遊びに来て……」


 先日だって、ウコン一人で白楼閣まで酒を呑みに来ていたが。

 言いかけて、ハクは自分が失言をした事に気がついた。

(しまった……)

 嫌な予感がして、ハクはゆっくりとマロロを見た。案の定、マロロは再び目に涙を溜めて、こちらを見つめている。


「あのな、たぶんあいつは自分達に依頼を持ってくるために、」

「慰めはいらないでおじゃ。どうせマロなんて、マロなんて……」


 これ以上取り繕うと、取り返しのつかないことになりそうだった。

(そっとしておこう)

 ハクは一人頷くと、手酌で残りの酒を呑み干した。



「ウコン殿はきっと、居心地がいいんでおじゃるな」


 再び、マロロの気持ちが収まった頃、彼がポツリと呟いた。


「ん? 何がだ?」

「ハク殿の側が、でおじゃるよ」

「自分の?」

「ハク殿と一緒にいると、身分とか地位とか関係がなくなってしまうでおじゃる。気兼ねなく話もできるし、マロも気分がいいでおじゃ」

「そういうもんかねぇ」


 ハク自身にはよくわからなかった。ハクですら、己の事がまだ良くわかっていないのだ。

(そういや、この間ウコンが部屋に呑みに来てた時も、そんなこと言ってたっけ)

 ハクは、先日のウコンの言葉を思い出した。


 ――鋭いのか、鈍いのか。


 その時は、その言葉の意味することを考える事を止めたのだったが。


「なぁ、マロ」

「何でおじゃ?」


 お猪口を卓に置くと、ハクは真剣な眼差しでマロロを見つめた。マロロは、普段あまり見ないその真剣な表情に、何事かと背筋を伸ばした。


「お前は、自分の事どう思ってる?」

「自分……? ハク殿の事でおじゃるか?」

「そうだ」


 ハクの質問の意味がいまいちわからない。マロロの表情はそんな風に見えた。暫しの沈黙の後、マロロは口を開いた。


「ハク殿は、マロの尊敬する友人でおじゃる」

「うーん、そういうのじゃなくってだなァ」


 ハクは、頭を抱えた。どうすれば上手く伝えられるのかがわからない。ハクは、しどろもどろになった。


「ホラ、あるだろ? そういうのじゃなくって、もっと直感的なもんだ」

「どういう事でおじゃるか?」


 ハクの回りくどい言い方に、マロロは首を傾げる。


「一体何が聞きたいのでおじゃ?」


 ハクは観念して、ボソボソと口を開く。


「あー、ホラ。自分の事が、好きか……嫌いかってことだ」


 その言葉に、マロロはぱっと顔を輝かせると、そんな事かと胸を張った。


「それは、もちろん! ハク殿の事は好きでおじゃるよ」

「……ふーむ、そうか」

「ふーむって、何なのでおじゃ! ハク殿~」


 あまりの反応の薄さに、マロロがまたしても泣きそうになっている。ハクとしては、いたって普通の反応だったが、マロロには不満だったらしい。ハクは、繕うように言葉を付け足した。


「あ、すまん。自分もマロの事は嫌いじゃない」

「そうなのでおじゃ!? 絶対なのでおじゃ!?」


(あれ? なんか違うなぁ)

 先日のウコンとのやりとりと同じように返答したはずだった。だが、何か違和感を感じる。何故だろう。


「当たり前じゃないか、マロは自分の大切な友人だからな」


 心の中で首を捻りながら、ハクは笑顔でマロロの肩を叩いた。



***



「毎度~」


 マロロと店先で別れて、一人宵闇に染まった道をホタホタと歩く。呑み屋街の店先には提灯が灯り、その先へ導くかのように続いている。

(いかんいかん。寄り道はしないぞ、と)

 あまり遅くなると、クオンに何を言われるか分かったものではない。

 自然と灯りのある方向へと向かいそうになる己の足を、ハクは無理やり大通りへと向ける。途中の細い道を曲がり、大通りに出ようとした時、視界の端に見覚えのある姿を見たような気がして、ハクは振り返った。


「あれ……いない」


 見間違いだったのか、視界の先には居酒屋を物色する人がまばらにいるだけで、自分の知っている顔はなかった。既に、通り過ぎてしまっただけなのだろうか。

(あの羽織の色。濃い水色の……)

 腕を通さず、いつも羽織を肩に掛けている。そんな姿の人物を一人だけ知っている。


「まぁ、あいつだとは限らない、か」


 たとえ、それがウコンだったとしても、それを詮索する権利などハクにはありはしない。オシュトルの姿の時はともかく、ウコンの姿の時のあいつは、神出鬼没なのだ。そこが例え、色町だったとしても。


「色町?」


 己の中に浮かんだ言葉に、ハクはもう一度その姿が消えた道をマジマジと見つめた。呑み屋街のわき道、細い路地の先にはこの場所とは比べ物もならない煌びやかな世界があるのを知っている。

 縁の無い世界だと、ハク自身は足を踏み入れた事は無いが。


「……」


 暫くハクは大通りへ出る道の手前で、じっとその先を見つめていた。己の胸の内に去来する、不確かな感情に戸惑いながら。



「こんな所でボーっとして、どうかしたのかい? アンちゃん」

「ひぉッ!?」


 突然、背後から肩を叩かれ、ハクは飛び上がらんばかりに肩を震わせた。お陰で、出したことの無い声を出してしまった。

 目をはちきれんばかりに見開いて振り返ると、ハクの驚きように目を円くしたウコンの姿があった。


「ウ、ウコンか……驚かすなよぉ」


 危うく腰が抜ける所だった。ウコンの羽織を掴んで、ハクは肺の底から深呼吸をする。そんなハクを、ウコンは微動だにせず、じっと見守っているようだった。


「そいつはすまねぇ。そんなに驚くとは思ってなかったんだよ」


 顔を上げたハクに、ウコンはニカッと笑う。


「どうしたんだい? まさか、俺がここに居るとは思ってなかった……そんな顔してるぜ?」


 その言葉に、ドキリと心臓が高鳴る。まるで、己の心の内を見透かされたような気分になる。ハクは、ウコンの羽織から手を離して彼を見上げた。そして、おもむろに彼の衣服に鼻を近づけてその匂いを嗅いだ。


「お、おいっアンちゃんッ」


(ふむ。香の匂いはしないな。やはり気のせいだったか)

 色町は、香を焚き染めた女達が沢山いるのだ。そんな中を通ってきたなら、残り香が漂っていてもおかしくないと思っていたが。

 ハクは、己の思い違いだったと納得し、改めて顔を上げた。すると、ウコンが何やら片手で顔を覆っている。


「どうした? ウコン」

「い、いや。気にしねぇでくれ」


 空いているほうの手で覗き込んでくるハクを押し留めると、何度か咳払いをしたウコンは、ようやくいつもの飄々とした顔をハクへと向けた。


「疑いは解けたのかい?」

「疑い?」

「俺が、どこぞのネェちゃんとイイコトしてたんじゃないかって、疑ってたんだろう?」


(何故気付いた!?)


「ち、ちちちち違うし。なんでお前のこと疑らにゃならんのだ」


 あからさまに動揺が口に出たハクは、バツが悪そうに顔を背けた。


「……別に、そういうのは、個人の勝手だろ? 誰を好きになろうが、誰を抱こうが」

「誰を好きになろうが、ねェ」


 ハクの言葉を繰り返したウコンは、腕を組んだまま、彼の顔を覗き込んだ。ハクは、その顔の近さに僅かに顎を引いた。


「な、何だよ」

「アンちゃん。この間の事、覚えてるかい?」

「……あぁ」


 覚えてない訳は無い。丁度先ほどまで、マロロと同じような話をしていた所だ。


  ――俺はアンちゃんの事が好きだぜ。


 以前、ウコンは己にそう言った。それは、友人としての好きだと、ハクは思っていた。思っていたのだ。

 だが、どうやらそういう事ではないらしい。

 ハクは恐る恐る、その言葉を口にする。


「つまり、お前は、自分の事が好きだと……?」

「ああ、惚れてる」


 ウコンの率直な返答に、ハクはヨロヨロと背後の壁に背中から寄りかかった。

(惚れてる? 自分に? ウコンが……)

 友人としてではなく、別の好きだと。

 あの時から、薄々と予感はしていたのだ。しかし、それは己の思い違いだと思っていた。

(友人の気持ちを邪推するなんて……)

 だが、今ウコンが口にしたのは、間違いなく『恋慕』の感情だ。その事実に、ハクの脳内は混乱していた。

 己の頭は、計算は得意だが、こういうことに関しては不得意らしい。

 何か言わなくては、という気持ちばかり急いて、肝心の言葉が出てこなかった。


「ウコン……自分は」

「シッ」


 口を開こうとしたとき、不意に視界が暗くなる。ハクは間近にウコンの匂いを感じた。香や匂い袋の匂いではない、肌の匂い。

 ウコンが、羽織でハクの視界を遮ったのだ。まるで、壁に寄りかかっているハクの顔を隠すように。すると、足元に二人とは別の影が重なった。


「旦那ァ、こんな所でお楽しみですかい? 近くにイイ宿があるんですがねぇ」

「うるせぇ。今イイトコなんだぃ。アッチに行ってな」


 近くの宿の客引きらしい。その男の視線から、ハクを守ってくれたらしかった。客引きが食い下がろうとする所を、ウコンはのらりくらりとかわしている。

 客引きの男が諦めて立ち去ったのか、ウコンの胸が安堵するように下がった。遮られていた視界が戻ると、心配そうにウコンが覗き込んでくる。


「大丈夫かい? アンちゃん」

「……大丈夫じゃない」


 搾り出すように、ハクがそう答えた。

 正直、心臓はバクバク言ってるし、足腰がふにゃふにゃだし、ウコンの匂いにクラクラしているし、大丈夫なところはひとつもなかった。


「大丈夫じゃない、けど」


 一つ、わかったこともある。

 ハクは息を吸うと、己より少し背の高いウコンを見上げて、言う。


「自分でも、よくわからんのだが……どうやら自分も、ウコンのことが好き、みたいだ」

「ハハ、まるで他人事みたいに言うんだな」

「うるせー。こんな感情初めてなんだよ」


 ウコンは、ハクの言葉に困ったように眉を下げて笑うと、ハクの隣に並ぶように建物の壁に寄りかかる。建物と建物の間から覗く夜空を見上げながら、ウコンはポツリと呟いた。



「我が半身、か」

「へ?」


 ウコンの言葉に、ハクは目が点になる。ウコンは己の口から自然に突いて出た言葉に、恥ずかしそうに頭を掻いた。


「アンちゃんに出会ってから、俺がココにいるのは、アンちゃんに出会うためだったんじゃないかって思うのさ」


 そう言って、ウコンは自分の胸とトントンと叩く。


「アンちゃんと居ると、心が満たされるっていうのかねぇ」


 ハクは、真剣にそう語るウコンの言葉に思わず噴き出した。突然笑われて、ウコンは眉を上げる。


「なんでぃ、アンちゃん。そんなに笑う事ないだろうさ」

「なんか、ウコンの姿でそんな言葉聞かされるなんて、思ってもみなかったからな」


 そういう聞いてて恥ずかしくなる台詞は、オシュトルの範疇だと思っていたのだが。

 ハクのその言葉に、ウコンはニヤリと笑う。


「ん? そうかい。じゃあまた別の機会にでも告白するか」

「ヤメロ。混乱するから」


 コイツなら、涼しい顔してやりかねない気がする。

 じと目でハクから見つめられたウコンは、ガハハと笑って、身を起こした。そして、建物に凭れかかったままのハクの手を引く。建物から背中が離れても、もう足腰は大丈夫そうだった。


「遅くなっちまったな。引き止めて済まなかった、アンちゃん」

「いや、自分もちゃんと話をしたかったから、良かった」


 ずっと抱えていたモヤモヤがすっきりと晴れた気がする。


「で、本当のトコロは色町に行ったのか? ウコン」

「なんだい、ヤケに気にするじゃねぇか」


 ウコンは、いつもの見慣れた彼に戻ると、顎に手をあてて暫し考えるように沈黙した。そして、何か考え付いたのか一人で納得したように呟いている。


「ウコン?」


 その呟きは、ハクにはよく聞き取れなかった。ウコンは顔を上げると、なんでもないと手を振った。


「ちょいと気になる事があって、前を通り過ぎただけさ。近いうちにアンちゃんにも相談させてもらうぜ」

「相談?」


 ということは、隠密がらみの件なのだろうか。気になるが、この場所で話題にすべき事ではないだろう。わかったと頷くと、ウコンは頼むぜとハクの肩を叩いた。


「じゃあ、自分はこれで」

「あ、アンちゃん」


 話がひと段落ついたので、帰ろうとするハクを、ウコンが呼び止めた。何事かと振り返ると、夜風に冷えた額に熱いものが押し当てられる。

 ウコンの唇だった。じんわりと熱が額に伝わる。あまりの唐突さに、ハクの声は上ずった。


「う、ウコンさん?」

「口じゃないだけ、譲歩してやってるんだぜ?」


 ウコンは笑う。


「なんせ初心(うぶ)だからなァ、アンちゃんは」


 その場に固まったハクをよそに、ウコンはヒラヒラと手を振って、大通りへと出る道を歩いていった。ハクはその背中を見送りながら、口付けをされた額に手を当てる。

 柔らかい感触が今も残っている。


「この病は重篤だ」


 誰に言うでもなく、ハクはポツリと呟いた。

 なんせ、特効薬が見つからない恋の病なのだから。