心地のいい場所(ウコハク)

「はー、休憩休憩」


 クオンから借りた書物を読む練習をしていたハクは、木の葉をしおり代わりに本の途中に挟むと、ゴロリと床に転がった。

 馴れない文字を一から覚えていくのはなかなかに根気のいる作業だった。慣れてくれば、この形はこう読むっていう所はすんなりと頭の中で切り替えられるのだろうが、まだ覚えて間もないハクの中では、まるで異国の言葉を自分の知っている言葉に翻訳するかのように、煩わしい作業だった。

 これでも、ネコネが持って来てくれた絵本のような簡単なものは、一通り読めるようになっていた。


「あとは、読むだけじゃなく、書く練習もせねばならんのよなぁ」


 それを考えるだけでもやる気が失われていく。


「働くよりはマシか、マシなのか?」


 『働かざる者食うべからず』というクオンの言葉が頭をよぎる。今は勉強のため、労働の一部が免除されているが、勉強をサボっているとなると、問答無用で仕事に駆り出されることに違いない。

 力仕事をするには、ハクは非力すぎた。というか、この世界にハクよりも非力な人がいるのだろうか。

 子供のするような手伝いですら、まともにこなせなかったハクである。


 帝都に着いて、白楼閣に腰を据えてからは、体力仕事が格段に減ったのはいいことだった。あったとしても、近所の溝攫いとか田植えの手伝いとか、ハクでもなんとかこなせるような仕事ばかりだ。


「あとは、小遣いが増えれば言う事はないんだがなぁ」


 何故か、ハクの貰うべき賃金は全てクオンの懐に入ってしまう。クオンの「ハクに全部渡したら、考えなしに使っちゃうかな」という言葉は正しい。正しいのだが、帝都で日々飲み食いしようと思うと、その金額はいささか少なすぎた。


「少しぐらい、ハメをはずしたっていいじゃない……」


 誰に言うでもなくポツリと呟く。天井の染みでも数えてみようかと思ったが、きれいに磨き上げられた楼閣の天井には、染み一つ見つけられることができなかった。


「くッ」


 なんだか涙が出てきちゃいそう。男の子だもん。

 そんな時、


「なーに一人で遊んでるんだい? アンちゃん」


 部屋の入り口から、笑いを含んだ声が聞こえてきた。寝転んだまま顔をそちらへ向けると、ウコンの風体をしたオシュトルの姿が逆さまに見えた。


「ウコンか。どうしたんだ?」


 よっこいせと体を起こしたハクは、格子扉を閉めて自分の目の前に腰を降ろしたウコンを見た。

 髪を逆立て髭をつけるだけで、オシュトルとはすっかり性格まで変わってしまう彼を見ると、本当は二人いるんじゃないかという気分にさせられる。

 しかしそこにいるのは、紛れもなくオシュトルと同一人物の男ウコンなのだ。


「いやな。ネコネからアンちゃんが勉強してるって聞いたもんでな。ちょいと様子を見に来たってわけさ」


 そう言いながら懐から徳利と盃を二枚とりだした。


「丁度一服していたようだし、チョイとどうだい?」

「おっ、話が分かるじゃねぇか、ウコン!」


 ハクは目を輝かせながら、彼の盃を受けとった。まるで、自分の行動を見ていたかのような絶妙な頃合いだった。


「いや、まさかな」


 ウコンに限って、そんな回りくどい事はしないだろう。この男は自分が思っている以上に忙しい男なのだ。

 ハクが一人得心していると、手酌で自分の盃に酒を注いだウコンが、首を傾げた。


「なんでぇアンちゃん。一人で納得したような顔しやがって。ちゃんと口にしてみろってんだい」


 そして、バシバシと肩を叩かれる。思わず飲みかけの酒でむせ返る所だった。


「おいおい、わかったから止めてくれウコン。折角の酒が零れちまう」


 素直に下げられた腕を確認して、ハクは飲みかけの酒を飲み干した。


「うん。美味いな」

 ハクは空になった盃を床に置くと、片膝を立てて腕を置く。そして、いつもどこか眠たげなその瞳をウコンへと向けた。果たして、こんな言葉を、仮の姿とはいえ右近衛大将である男にぶつけてもいいものか。


「俺とアンちゃんの仲じゃねぇか」


 遠慮はいらないらしい。


「じゃあ、言わせて貰うがなぁ」


 ハクは一つ咳払いして、口を開く。


「もしかして、ここに入ってくるずっと前から、自分の事見てたのか?」

「ぶほっっ!」


 目の前から、口に含まれた酒が盛大に飛んできた。ウコンはゴホゴホと咳き込みながら、懐から出した手ぬぐいで床を拭いている。


「ゴホッ……何、言い出すかと思ったら、ゲホッ…ゲホッ」

「いや、悪い。なんかお前が都合よく現れたもんだからなァ」


 一応確認してみただけだ。


 自分にかかった酒を拭いながら、ハクは淡々と、そう言葉を重ねた。ウコンはというと、一時動揺を見せたものの、今はいつものどこか食えない笑みを浮かべてこちらを見ていた。


「なんだよ、ウコン」

「アンちゃんは、鋭いのか鈍いのか、たまに分からなくなるねェ」

「それを言うなら、お前だってまだ手の内を全部見せてるわけじゃないだろう?」


 自分よりも、もっと色んなものを内に隠している、そんな気がする。

 ハクの言葉をどう受け取ったのか、ウコンは笑みを崩さずに、徳利を目の前に掲げてみせる。誘われるまま、ハクは再び盃を受けた。


「ほら、返盃だ。ウコン」


 徳利を受け取り、今度はウコンに差し出した。


「おお、すまねぇな」


 トクトクと、透明な酒が盃を満たしていく。その様子を見つめながら、ウコンが口を開いた。


「俺ァよ、アンちゃん。なんだかお前さんと一緒に居ると心地がいいのさ」

「自分と?」

「ああ、昔の。エンナカムイにいた頃の自分に戻れるような気がしてな」


 盃に口をつけながら、どこか遠くを見るようにウコンは続ける。


「何もしがらみが無い頃の俺に、な」

「だが、朝廷を、民を支える事を選んだのは、お前の意志だろ?」


 ウコンの言葉は、まるでその事から逃避したいかのように聞こえた。ハクの言葉の裏に気付いたのか、ウコンは口元を歪める。


「わかってるのさ。ただ、右近衛大将ですらままならねぇコトが、この世の中にはまだまだ沢山ある。テメェの目の届く範囲なんて限られてるからな」


 そう言うと、ウコンは空になった盃を頭上に高く掲げてみせる。


「俺の見えてるトコなんて、せいぜいこのくらいだ」

「まぁ、そうだな。この都は広すぎる」


 ハクは相槌を打ってその先を促した。ウコンは盃を自分の手の中に収めると、言葉を続ける。


「救えなかった命なんて、山ほどある。そんな時、俺はこんな広い帝都じゃなく、エンナカムイの民草の安寧を守る地方役人でも良かったんじゃぁないかって思うのさ」


(なんか、妙に湿っぽくなってきたな)


 こんな話を聞くつもりじゃなかったのだが、聞き出した手前、もうこんな話は止めようというわけにはいかなかった。ハクはチビチビと酒を舐めながら、ウコンにかける言葉を探した。


「でもなぁ。地方役人は、所詮帝都からの指示には従わにゃあならんだろう。そうなれば、お上の胸先三寸で民を無下に死なすこともあるんじゃないか?」

「む」

「それを考えれば、帝都でそんな事が起きないように目を光らせているほうが断然いい。お前は、帝都を守りつつ、故郷を守っているのさ」


 ハクの言葉に、ウコンは珍しいものを見るかのように、目を円くしていた。


「ウコン?」


 訝しげに声を掛けると、ウコンは破顔一笑してハクの肩を再びバシバシと叩いた。


「いっ、イデッ! 叩くな、肩が折れるっっ」

「いやー、やっぱりアンちゃんは面白い御仁だねェ」


 ひとしきり笑ったウコンは、先刻まで叩いてたハクの肩を労るように優しくさすった。そして、人好きのする涼やかな瞳をすっと細めて、


「やっぱり、俺はアンちゃんの事が好きだぜ」


 真っ直ぐにハクを見つめて言った。その言葉に、ハクは自然と口を開く。


「そりゃどーも。まぁ、自分もあんたのことは嫌いじゃないさ」


 淡白なハクの返しに、何故かウコンは困ったように眉を下げて笑った。


「本当に、アンちゃんは鋭いんだか、鈍いんだか……」



 「また来るぜィ」という言葉と共に帰っていったウコンを見送って、ハクは再びゴロリと床に大の字になった。ちょうどいいほろ酔い加減だ。タダで頂く酒ほど美味いものは無い。


「そういえば、結局酒を飲みに来ただけだったのか? アイツ」


 途中から『ハクの悩み相談室』みたいになっていたが、元はといえば自分が休憩していた所に、ちょっと一服と酒を持ってきただけだったのだ。そして、


「自分と一緒に居ると心地がいいって話だったか」


 そして、帰る間際にも自分の事が好きだとか、なんとか言っていた気がする。



「……ん?」


 自分の事が好きで、居心地がいいから遊びに来た? わざわざ?

 ハクは、先ほどウコンと話していた会話を、もう一度記憶の奥から呼び戻す。

(そういえば、自分が「嫌いじゃない」と言ったとき、どこか複雑そうな顔をしていたな)


 ――アンちゃんは鋭いんだか、鈍いんだか……。



「んん???」


 なんか、とんでもない告白を聞いたような気がした。


 ウコンが自分に好意を持っていると?


(いや、まて。その結論は早計すぎる)

 なんだか途端に酔いが回ってきたかのように、グルグルと頭の中が混乱してきた。ウコン――いや、オシュトルが自分を好きだと?

 そもそも、それはウコンとしてなのか? オシュトルとしてなのか?

 いや、問題はそこじゃないし……!


「あー、やだやだ。やーめた」


 ハクは早々に考えることを止めた。

 一人でグルグルしてたって、正解が分かるわけでもあるまいし。

 ただ、もし、先程たどり着いた結論が事実だとしても、何故だか嫌な気持ちにはならなかった。それが、自分の答えのような気がした。


 次第に、眠気がハクの瞼に重くのしかかってくる。きっとこのまま寝てしまったら、クオンにどやされるんだろうなという気はしていたが、睡眠欲には勝てそうも無い。


(今度会ったら、聞いてみるか……好きの意味を)


 ハクは、そんなことを考えながら、甘い眠りの中へと誘われていくのだった。