耳鳴りが頭のなかでこだまする。
――なんだ? コレ。
ジョセフは、息を吸おうと、口を大きく開けた。しかし、肺の奥まで酸素が入っていかない感じがした。
おまけに、今は波紋矯正マスクをしている。
――ヤバイぜ、これは……。
目の前が真っ暗になる瞬間、視界の端に逆さまになったシーザーの姿が見えた。
――なんでここにいるんだよ、おめーは。
自分の状況はそっちのけで、ジョセフはそんな事を考えていた。
心配そうに覗き込もうとするシーザーの表情を最後に、暗闇は訪れる。心の中で、ジョセフは呟いた。
――おめーに、こんなカッコ悪いところ見せたくなかったぜ。
目が覚めれば、自分はベッドの上にいた。波紋矯正マスクを外されていたジョセフは、様子を覗きに来たスージーQにリサリサの部屋に来るようにと伝えられていた。
のろのろと、波紋の師であるリサリサの元へと向かうと、開口一番彼女は言った。
「まるで、呼吸の仕方を忘れたようね」
その声音は淡々として、逆に不気味さを漂わせていた。
「どーしたら元に戻るんですかー先生ぇ」
不貞腐れたように、唇を突き出しながら、ジョセフは問うた。
その質問に、答えが返ってくるとは思ってはいなかったが。
「それは、自分で考えることじゃあないのかしら?」
当然のようにそう返されては、腐るしかないというものだ。
(それが分かれば苦労しないっての)
そもそも、今まで完璧ではないにしろ波紋の呼吸は自然にできていたのだ。それを今更思い出せといわれても、無理な話というものだ。
そんなジョセフの気持ちを知ってか、リサリサは長い黒髪をかき上げながら口を開く。
「今はどう? 波紋の呼吸はできますか?」
促されるように、ジョセフは深く息を吸った。何度か深呼吸を繰り返しているうちに、波紋特有のパリっとした静電気のようなものが、彼の全身を駆け巡った。
――波紋だ!
「あれ? なんでだ? さっきは全然できなかったのに」
ジョセフは不思議そうに首を捻る。呼吸の方法すらも考えるまでもなく、自然と波紋のエネルギーが全身に行き渡るようだった。
それを見て、リサリサは言う。
「今は出来るという事は、ジョジョ。貴方がその時に何か強い心因的ストレスを感じていた可能性がある」
「ストレスだぁ~?」
一番自分には縁遠い言葉だ。
目を円くしたジョセフに、リサリサは燃えて半分ほどに短くなった煙草の先を向ける。
「自分でも気がついてない何かがあったはずよ」
首を捻って考えては見たが、今の時点で思い当たる事はなかった。
「……まぁ、貴方もここの所頑張っているようですし。休暇を与えますから、街へでもいってらっしゃい」
その言葉に、ジョセフは喜色の笑みを浮かべる。
「もちろん、マスクは外して行っていいんだよな?」
「どうしてそうなるのかしら」
「……」
現実は非情である。
天国から地獄に落とされたような顔をしているジョセフに、僅かに苦笑したリサリサは、テーブルに置いておいたジョセフのマスクを手に取った。
それを目の前のジョセフに差し出しながら言う。
「今は正常に戻っているようだから、マスクは着けていくこと。もし、苦しくなるようなら、自分でその原因を確かめる事ね」
「せんせー。おれが街で呼吸困難で倒れたらどうしてくれるんだよ」
知らぬ間に行き倒れなんて、カッコつかないぜ。
そう呟いたジョセフに、リサリサは眉を上げる。
「誰が、貴方ひとりを街へ行かせると言ったの?」
「へ?」
「シーザーにもついでに、ヴェネチアまで買い出しに行ってもらうわ」
エア・サプレーナ島からヴェネチアへと向かう船で、ジョセフとシーザーは、左右の船縁に腰を下ろしていた。
(なんで、よりにもよってこいつと一緒なんだ)
今一番顔を会わせたくない相手だった。修行中ほぼ毎日顔を合わせるせいで、自分の弱い所ばかり見せているような気がするのだ。
逆に、ジョセフから見たシーザーは、さすが波紋の修行を以前していただけあって、自分と同じ修行は軽くこなしているように見えた。
それが、なんとなく悔しい。
(久々の休暇だというのに、またしてもこいつと行動しなくちゃあならねーとは……)
「なんか不満だって顔してるぜ、ジョジョ」
心の中を見透かしたかのように、向かいからこちらを見ていたシーザーがそう言った。その口角は、からかうようにやや釣りあがって見えるのは気のせいではないらしい。
「全然っ、不満なんてありませんが?」
「その言い方が不満そうだって言うんだ」
シーザーはふと目を細める。ジョセフは反射的に、顔をあらぬ方向へと向けてしまった。
――なんなんだ、一体。
腹の奥の方がなんだかザワついた。
暫くして、船はヴェネチアの停泊所に着いた。
島とは違い、大勢の人が行き交っている。その光景がすごく久しぶりだと感じた。ジョセフは大きく伸びをしながら呟いた。
「マスクが無かったら、快適そのものなんだけどなぁ」
「ジョジョ。おれは買出しに行って来る。お前はどうするんだ?」
リサリサに頼まれたのだろうメモを取り出したシーザーは、ジョセフを振り返った。
別行動なのは、ジョセフにとっても願ったり叶ったりだ。とにかく一人になりたかった。
「じゃあおれは、そこらへんの女でもひっかけて来ちゃおっかな」
「やめとけよ、ジョジョ。その姿じゃあ、シニョリーナたちが逃げ出すにきまってるぜ」
シーザーにどこか憐れむような視線を向けられたジョセフは、マスクの中で唇を歪めた。
確かに、マスクを着けた姿は不審者と思われても仕方がないだろうが。
「やってみなくちゃあ、わかんねーだろッ」
そこまで言われたら、男のプライドが傷つくってものだ。呆れているシーザーを尻目に、ジョセフは広場へと足を向けた。
結果は、案の定だった。
声を掛ける前から、まるで不審者を見る視線をジョセフは感じていた。
そこまで避けられると、さすがのジョセフもちょっぴり傷ついた。
そんなジョセフが、広場の真ん中にある噴水に腰掛けてぼーっとしていると、白い小鳩が周りに集まってきた。
「うーん、おれってば鳩には人気あるのよね」
独り言のように呟いたジョセフは、小鳩たちを見下ろした。
「おれに寄って来たって、おいしいものなんか持ってねーぞ」
ひざの上に乗って来た鳩の喉元を指でさすると、クルクルと鳩が鳴く。
腐りかけていた気分が、少し癒されるようだった。
(しかし、なんでおれは波紋の呼吸が出来なくなったんだろ)
それが不思議だった。
今は、マスクを着けていたとしても苦しくは無い。
息が出来なくなる直前。
(おれは、何かを見ていたよーな気がするんだけど……)
それが何だったか、思い出せない。
ジョセフが、考えに没頭していた時、一斉に自分の目の前から飛び立った。驚きに、慌てて顔を上げる。
バサバサと目の前を飛び交う白い羽の隙間から、見知った姿が垣間見えた。金髪の癖っ毛が太陽に照らされて、眩しい。
「おめーは、鳩に嫌われてるようだな」
そんなジョセフのからかいの言葉に、シーザーは肩をすくめただけだった。
「お前こそ。ナンパはどうしたんだ?」
シーザーの片手には買物の袋が抱えられている。どうやら、買物は終わったらしい。ジョセフは大げさに両手を広げてみせる。
「おれ好みの女が全然いねぇんだもん」
「それはよかった」
「は?」
何がいいのか分からない。
訝しげに眉を寄せたジョセフに、シーザーは片眉を上げた。「もちろん、女性にとって良かったという意味だ」
「うるさい。そういうおめーはどうなんだ」
女性には声を掛けずにはいられないイタリア人の事だから、何処かしこで女に声を掛けたんだろう。
しかし、返ってきたのは意外な答えだった。
「おれは、ナンパなんか必要ない。今は修行第一だからな」
「……大丈夫か? おめー」
どういう心境の変化だ。
唖然とするジョセフを見て、心外だといわんばかりにシーザーが眉を寄せた。そして、またもや意外な言葉を口にした。
「それに、おれは片思い中だからな。他の女性に目が行かないだけだ」
まぁ、普通に女性には親切にするがな。と、付け加えて。
「片思い? おめーが?」
意外だった。ジョセフは一瞬驚きで息が止まりそうだった。
「おれが、誰かに片思いしていたら悪いのか?」
「いや…なーんか、意外」
そして、自分の反応も意外だった。胃の辺りがギュッと締め付けられるようだった。ジョセフは、背中から汗が伝うのを感じていた。
「ジョジョ。気分が悪いなら切り上げて早く帰ろうぜ。買物は済ませたし」
「あ、ああ……」
ジョセフの異変を感じたシーザーは、空いている方の手を差し出した。「掴まれよ」
「……」
その手を、ジョセフは掴む事ができなかった。
息が、苦しい。
(波紋の、呼吸……)
「ジョジョ?」
「ちか……くんじゃあねーッ」
顔を近づけてきたシーザーを押しのけて、ジョセフは広場から逃げ出した。
気を失ったあの時。
ジョセフはあの時、何が起こったのか思い出していた。
波紋の修行中、ずっとできなかった訓練ができた時、思わずシーザーを見た。すると、合うはずが無いと思っていたシーザーと目が合った。そして見た。彼の満面の笑みを。
――そうだ、おれは……。
その時から、徐々に呼吸が出来なくなっていった。
なんとなく、自分でもわかっていたのだ。
(シーザーが好きだってこと)
意識すればするほど、胸が、呼吸が苦しくなる。
そのあまり、呼吸困難に陥った。それが答え。
「ジョジョ!」
背後から、シーザーの声が追ってくる。
少しでも、遠くへ。
しかし、既に息が上がっている。追いつかれるのは必至だ。
ジョセフは、人目を逃れるかのように、繁華街から人気の無い波止場へと向かっていた。
「は……、はあッ……」
「ジョジョ」
「ち、かづくんじゃあねぇ」
胸を押さえながら、ジョセフはシーザーを振り返った。決して目を合わせることがないように、彼の足元を見つめながらジョセフは口を開いた。
「おれが、波紋の呼吸ができなくなった原因……わかったから、近づくな」
「どういうことだ、ジョジョ」
十歩分くらいの距離をあけて、シーザーは立ち止まっている。自分の呼吸を確かめながら、ジョセフは訥々と言葉をつむぐ。
「おめーが、原因だ」
「おれが?」
「おめーが、視界に入ると……息が苦しくなる。だから、近づくんじゃあねぇよ」
一歩、シーザーの足が前へと踏み出した。ジョセフは一歩後ずさる。
「来るなって」
「ジョジョ。おれを見ろよ」
もう一歩。シーザーが進むごとに、ジョセフは再び距離を開ける。
「嫌だって言ってる……」
「じゃあ、目を閉じてろよ。ジョジョ」
視界におれの姿が入らないように。
ジョセフは体に力をこめて目を閉じた。呼吸する事だけに集中する。
まるで、永遠にも感じる時間だった。
不意に、背後から抱きしめられる気配がした。ジョセフは目を開けた。
「おいッ……」
「しッ、ゆっくり息を吐け」
シーザーの手のひらが、自分の腹の上に置かれている。「おれの呼吸に合わせてみろ」
言われるままに、息を吸う。スー、ハーと何度か深呼吸。それと同時に背中にシーザーの胸の動きが感じられた。
(あれ…?)
その呼吸は、いつもよりも軽やかに感じるほどだった。
ジョセフは、目を閉じてその動きを追った。まるで二人の体が、ひとつのものになったような感覚。
ジョセフの呼吸が落ち着いたのを確認して、シーザーがそっと体を離したと同時に、ジョセフか目を開けた。
振り返ると、自分をやや見上げている彼の視線にぶつかった。
「今も苦しいか?」
シーザーの問いに首を振る。「むしろ、前よりも呼吸しやすくなった」
「そいつは良かった」
ふわりとシーザーが笑う。その笑みに、ジョセフは確信する。
(やっぱり、おれはこいつのこと……)
「なぁ、シーザー」
「その前に、ジョジョ」
口を開きかけたジョセフをシーザーが手で制す。
「先に、おれから言わせて欲しい」
「何を」
彼は、少し視線をそらして呟いた。
「おれの片思いの相手。お前だぜ」
「へッ?」
驚きに、心臓が飛び跳ねた。ヤバイ、再び呼吸が乱れる。
「お前が、好きなんだ。ジョジョ」
「シ、ザ……」
そんなジョセフの手をシーザーが引き寄せた。今度は向かい合わせで呼吸をあわせる。
「ジョジョ。おれの事、好きだろう?」
――ああ、好きだ。
言葉にする代わりに、ジョセフはギュッとシーザーの背中を抱きしめた。
人は、恋をすると息が苦しくなるんだ。
ジョセフが、それに気付いた瞬間だった。